Grampus Diary from TOKYO
by tknr0326g8
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選手紹介#17 “必殺仕事人”大森征之
 昨シーズンまで名古屋で4番を背負っていた大森征之の引退がクラブを通じて発表された。名古屋に在籍すること11年、出場試合は200試合を上回る。これはもはやクラブにとってひとつの歴史であり、昨シーズン開幕前の移籍騒動で(少なくとも俺の中には)心情的なシコリを残した大森だったが、名古屋について語るならば彼についても触れなければならない。

 名古屋の背番号4と言えば、チーム設立当初からのメンバーであり二度の天皇杯優勝でいずれもピッチに立っていた“ミスター・オウンゴール”こと飯島寿久(現トップチームコーチ)が思い浮かぶが、もし将来誰かがクラブの歴代ベストイレブンを選定することがあるとすれば、その俎上に上がるのは飯島ではなくその飯島から背番号4を受け継いだ大森の方だろう。タイトルとは直接無縁だった大森だが、彼が優れたプレーヤーであったという事実に疑いの余地はない。

 そんな大森のチーム加入は1998年。時の名古屋監督である田中孝司がユース代表監督時代に大森をトレーニングキャンプに呼んだことがあり、その縁もあって当時JFLの鳥栖でプレーしていた大森を引っ張ったと言われている。今から考えれば、大森を引っ張って来たことと中谷をデビューさせたことが田中孝司が名古屋に残した数少ない功績だ。ちなみに大森が1995年に広島に入団した時の同期が久保竜彦、その広島を一年で解雇になり移籍した鳥栖でコーチとして後の大森のサッカーに対する考え方やプレースタイルに大きな影響を与えたとされるのが今シーズンから大宮の監督に就任した張外龍である。

 名古屋への入団後どちらかと言えば地味な存在だった大森だが、ほどなくして彼は「期待の若手」となり古賀・福田・中谷の通称“トルシエ・ボーイズ”とともに脚光を浴び始める。そして大きな転機は2000年。言わずと知れた清商トリオの解雇騒動によって大森は若くして名古屋の中心選手となった。トレードマークは甲高い声。入団当初に左SBとして出場した試合で目の前にいた当時日本代表の平野孝に「ヒラノっ!!」とやって少しムッとされていたシーンが脳裏に焼き付いているが、クレバ-な状況判断に基づいたコーチングは当時から際立っていたし、それは十分中心選手としてプレーするに足るものだった。
 レギュラー定着したばかりの頃はサイドバックとしてプレーすることが多かった大森はどちらかと言えば攻撃面でその特徴が際立っていた。とりわけシザースの切れ味は抜群で、爆発的なスピードがあるわけではないが、スピードを落とした状態から一瞬で相手を置き去りにするフェイントは名古屋のタッチライン際の名物のひとつだった。またスペースでボールを受けるというよりも足元でボールをもらうタイプの大森は、晩年のピクシーに「俺がボールを持ったら後ろを回れ」と試合中に怒られたりもしていたが、清商トリオ退団直後の神戸戦で左SBの位置から再三に渡り左SHの滝澤にスルーパスを送り滝澤のプチブレークをアシストしていた。
 こうしたパスの能力はストッパーに定着してからもしばしば発揮され、その右足から放たれるキックの質、戦況(狙いどころやタイミング)を見極める眼ともに申し分ないフィードは何度もチームにチャンスをもたらしている。最も印象深いのは名古屋が降格の危機に瀕していた2005年の第31節・G大阪戦で、ラスト10試合でたったの2勝(1分7敗)しか出来なかった名古屋が奪った勝利のうち1勝がそのシーズンでリーグ初制覇を成し遂げたG大阪からだったのだが、その試合で未だにサポーターの間では語り草になっている鴨川の(宮本を吹っ飛ばして決めた)先制ゴールをアシストしたのが大森からの正確でタイミングの良いフィードだった。
 そんなゲームの流れを読む力がありパスも出せる大森を中盤で起用出来ないのか?という考えはおそらく誰もが思い浮かべるはずだ。実際ペップ(グァルディオラ)を崇拝する大森も当初はボランチでの起用を望んでいたとされ、その身体にはペップ譲りのパスのリズムが染みついていた。そしてこのポジションを重視していたネルシーニョがクサビのパスを出してゲームを作れないムラムラコンビに痺れを切らして試した奥の手が大森のボランチ起用だった。しかし俺は決して悪くない感触を得ていたこの起用も、残念ながら周りや本人の怪我によって長続きすることはなかった。

 だがそんな大森もいつか振り返られる時があるとすれば、おそらくそれは晩年にDFリーダーとして強いイメージを残した「守備」の面でだろう。2002年から2003年にかけてズデンコ・ベルデニックのもと、(特定のマークを持たず)カバーリングに専念するリベロ・パナディッチともう一人のストッパー古賀正紘とともに「鉄壁」と称される3バックを組んでいたのが大森だった。正しいとか正しくないとかではなく、個人的な感想としては思い出すのもおぞましいズデンコ時代の守備的なサッカー(今の大分をもっと守備的にした感じ)において、当時浦和に在籍していた全盛期のエメルソンを完璧に封じていた大森のディフェンスは数少ない見せ場だった。パナディッチそして楢﨑という後ろ盾があったとは言え、当時の大森は「エースキラー」の称号を欲しいままにしており、その後相次ぐ怪我でそのプレーから少しづつキレが失われていったことを考えても、大森はズデンコのもとでキャリアの全盛期を迎えていたと言っていい。
 その後大森に対して絶対的な信頼を置きまた大森も心酔していたフェルフォーセンのもとでも大森は3バックの一角として不動の地位を確立していたが、結局そのパフォーマンスが怪我の前の状態に戻ることはなかった。個人的には味スタでのFC東京戦でなんでもないボールコントロールをミスった大森に対して近くにいたFC東京のレプリカを着たサッカー少年が失笑していた場面がなぜか印象に残っている。そして2007年にホーム(瑞穂)で1-4という惨敗を喫したG大阪戦で俺の中でのプレーヤーとしての大森は終わった。バレーに蹂躙されて心が折れたのか、すっかり集中力を失って次々と失点を許すると、極め付けは播戸の鋭いフェイントに尻もちをつかされるかのように振り切られ豪快なゴールを叩き込まれた。大森がここまで完全に抜き去られたのは、他には2000年のヴェルディ戦@国立競技場で飯尾一慶に抜き去られた時ぐらいしか思い付かない。W杯とも日本代表ともリーグ戦での得点とも縁がないままひたすら地道にチームを支えてきた選手のプレーヤーとしてのひとつの時代の終焉がそこにはあった。

 そんな大森は今後指導者にも興味を示しているという。人格的にも素晴らしく卓越した戦術眼も併せ持つ大森ならきっと優れた指導者になれるだろうし、その力を名古屋の育成のために貸してくれたなら幸せなことだと俺は思う。この際一年前の移籍騒動はノーサイドだ。そして偶然にも大森が引退を発表する数日前、俺はユースで往年の大森を彷彿とさせるプレーを見せる選手を見掛けた。決して身長に恵まれているわけではないが粘り強い対応で相手のアタッカーを封じ、自らボールを持てば前線に鋭いフィードを入れる19番の奥山が(彼自身はこれまでも何度か見てはいたが)どことなく大森と被って見えたのはなにかの偶然だろうか。そして大森と同じ甲高い声でコーチングを行うのは週末にプレミアカップ東海大会に挑むU-15のニッキ。トップチームで4番を引き継いだ吉田も含め大森の意思は名古屋できっと彼等が受け継いでくれるだろう。
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by tknr0326g8 | 2009-04-03 01:53 | Player's Profile
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