Grampus Diary from TOKYO
by tknr0326g8
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 少し古いネタですが、個人的にどうしても記録しておきたいので・・・

 俺にとっての初代アイドルだった小倉隆史の引退が発表された。(甲府公式

 テクニカルにしてパワフルな左足、溢れるイマジネーション、そして人を惹きつけて止まないキャラクターを持つ彼は生まれついてのスターであり、誰もがその将来に希望を抱かずにはいられないようなプレーヤーだった。
 そんな彼のプロとしてのキャリアのスタートは輝かしいもので、世に言う「四中工三羽ガラス」のひとりとして出場した全国高校サッカー選手権で優勝し準地元とも言える名古屋に入団すると、その年のナビスコカップでさっそく鮮烈なデビューを果たした。そしてJ開幕を横目にその先のキャリアを見据えひとりオランダ(フェイノールト)へと留学、そこでもその能力を存分に発揮し(さらに貸し出された)2部のエクセルシオールでチーム得点王となる活躍を見せた。この年オランダで新人王を争ったというオーフェルマルス(当時アヤックス)と小倉が後にどちらも膝に選手生命を奪いかねない大怪我を負ったことは運命のいたずらだろうか。
 エクセルシオールでの活躍を認められ1部リーグのチームからの誘いもあったという小倉が翌シーズン日本への帰国を決意したのは、28年ぶりのオリンピック出場を目指して編成されたU-23日本代表チームに合流するためだった。そして帰国後即そのU-23を飛び越えて、当時若手を積極起用していたファルカン日本代表監督によってキリンカップでフル代表にデビュー。二試合目のフランス代表との試合ではカントナ、パパン、デサイー、デシャン、ブラン、ジノラ、ジョルカエフ、ル・グエンといった錚々たるメンバーを相手に日本唯一の得点を奪ったのだった。
 Jリーグではデビュー戦となった当時の王者ヴェルディとの試合でトリッキーなフェイント(マスコミ風に煽るなら“オランダ仕込み”笑)で観客の度肝を抜くとその圧倒的な存在感で一躍時代の寵児となった。折りしも当時のU-23日本代表には、ドリブラーの前園真聖(引退)や高卒ルーキーとしての開幕戦からの連続ゴール記録を持つ城(現横浜FC)、現在の日本代表正GKである川口(現磐田)、その他にも田中誠、服部(ともに磐田)等の才能豊かなプレーヤーが顔を揃え「史上最強」だとか「ドリームチーム」といった言葉がマスコミを賑わしていた。小倉はその中心にいたわけだ。
 アトランタ五輪一次予選のAWAY・タイ戦。今でこそ(ユース世代ならともかく)負けることを想像するのが難しい相手だが、当時としては十分な強敵と言えたタイに対して、監督の西野(現G大阪監督)によって小倉は「2トップの右側」として起用された。当時の小倉は何でも出来る分「FWとしてゴールへの意欲が足りない」などと批判されることがままあったが、西野はそんな小倉を右側に置くことでボールを持った後に中に切れ込んでシュートまでという意識を強く持たせようとした。そして小倉は素晴らしいパフォーマンスを発揮する。(俺の中でもこの試合は小倉のパフォーマンス・ベスト3に入る) 右サイドから内へ切り込んで強烈な左足シュートを放ったかと思えば、前園と抜群のコンビネーション――タメを作るプレーに持ち味がある小倉にとって前園のようなボックス内への飛び出しを武器とするプレーヤーとの相性は殊のほか良かった――を披露してのチャンスメーク、そしてCKからニアサイドヘと飛び込むダイビングヘッドで自ら得点を奪った。しかし、好事魔多しとはこのことで、タイを圧倒したチームにあって終了間際タイ人プレーヤーの無謀にして悪質なタックルを膝に受け長期の離脱を余儀なくされてしまう。(それからちょうど4年後の同じくオリンピック予選でデジャビューのようなシーンが小野に降りかかるわけだが・・・)
 負傷から復帰を果たした小倉はベンゲルのもと急成長を果たしたチームでストイコビッチと2トップを形成する。リーグ戦では前半だけでベンチに下げられる試合があったかと思えば、チームの全得点に絡む活躍を見せるなどなかなかパフォーマンスが安定しなかったが、翌年初頭に行われるアトランタ五輪最終予選に向けコンディションは確実に高まっていた。そして天皇杯では決勝戦での2ゴールをはじめとする活躍で得点王に輝き、チームを優勝へと導く原動力となった。

 そして、シーズンオフも半ば休み返上のような形ででコンディションのピークを維持したまま迎えたアトランタ五輪最終予選合宿・・・誰もが知る「事故」が起こる。ひょっとしたらその事故と同じくらい、その後日本でアスリートとして満足な手術や治療が受けられなかったことが重大なことだったのかもしれないが、この後小倉が真の表舞台へと登場することはなかった。たまに表舞台へと登場する小倉は常に「悲劇のヒーロー」であり「怪我からのカムバックを目指す元スタープレーヤー」だった。

(後編へつづく) 
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by tknr0326g8 | 2006-02-13 02:35 | PlayBACK
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