Grampus Diary from TOKYO
by tknr0326g8
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PlayBack#7 “オーストリアの英雄”ヴァスティッチの記憶
 オーストリア・スイス共催のEURO2008に、地元オーストリアの代表選手として、かつて名古屋にも在籍していたイヴォことイビツァ・ヴァスティッチが出場している。38歳という年齢でまだ現役を続けていること自体驚きだが、ビッグタイトルが懸かった大会で代表に復帰してしまうのだから恐れ入る。2002年の日韓共催W杯でフィリップ・トルシエが中山雅史や秋田豊をメンバーに加えたように、求心力のあるベテラン選手を敢えてチームに入れておくというのは、チームマネージメントの手法として決して珍しいことではないが、ヴァスティッチの場合スタンドからの圧倒的な後押し(「イヴォ」コール)もあってか、いきなり初戦(クロアチア戦)から0-1とリードされた後半に反撃の切り札としてピッチに姿を現すこととなった。

 オシム率いるシュトルム・グラーツでマリオ・ハース等とともに黄金時代を築いていたヴァスティッチが日本へとやって来たのは、日韓ワールドカップが終了したばかりの2002年7月だった。シュトルム・グラーツからセットで加入したクロアチア出身のDFパナディッチとともにさっそくチームにフィットしたヴァスティッチは、1stステージの残り8試合で5ゴールを量産し、チームも7勝1敗という驚異的な勝率を残した。爆発力のあるウェズレイとの2トップは文字通り「J最強2トップ」と呼ぶに相応しく、2ndステージ開幕を控えてチーム内外からは優勝を期待する声も上がっていた。そしてシーズン開幕戦、ホーム瑞穂に清水を迎えた名古屋はヴァスティッチのスーパーミドルを含む2得点などで清水を3-0と粉砕する。周囲の期待感は最高潮に高まっていた。しかしその後ヴァスティッチのパフォーマンスが低下すると、名古屋はチームの勢いも失っていった。そして初優勝を期待された2002年2ndステージはクラブ史上最低順位(当時)という皮肉としか思えない結末で幕を閉じたのだった。

 オーストリアでそうであるのと同様、名古屋でもヴァスティッチの人気は高かった。端正な顔立ちのせいもあるだろうが、ラストマッチとなった豊スタでの仙台戦で後半ロスタイムに決めた劇的過ぎる逆転ゴールなど、一年間という短い在籍期間で名古屋の地に刻んだプレーの印象は余りにも強い。野球でしか存在しないと思っていた「逆転サヨナラ」ゴールに俺もTVの前で思わず涙腺が弛んだクチだが、それでも俺は名古屋サポのイヴォに対する評価が(例えば翌年チーム初の得点王を獲得したウェズレイなどと比べても)不当に高いものであるとも感じている。そしてその最大の理由は、いつからかヴァステイッチのプレーにはどこか心ここにあらずな雰囲気が漂い始めたからであり、アタッカー(FW)として獲得されたにも関わらず前線で身体を張るプレーを放棄してしまったからである。それがチームの成績にも反映されていたのは上でも書いた通りである。

 ヴァスティッチのプレースタイルに変化を与えるきっかけとなったのは、俺が知る限り2ndステージ・第3節の千葉戦だ。その年のシーズン開幕前、強引な手法によって監督のズデンコ・ベルデニックを引き抜いた名古屋に対し千葉は「報復」に燃えていた。そしてスポーツ新聞紙上などで2トップを名指しして「削りに行く」と宣言していた中西永輔は試合でそれを実行に移す。しかし主審はその悪質なファールに対して警告ひとつ出さないどころか、後半38分報復行為による二枚目のイエローカードでヴァスティッチを退場させてしまった。この試合の後EURO2004予選のために欧州に戻ったヴァスティッチは地元の記者に対して日本のレフェリーのレベルの低さを嘆いたという。明らかに相手を傷つけることを狙って危険なファールを繰り出していた中西は犯罪者以外の何者でもない。ご丁寧に新聞で予告まで残していたのだから、選手を守るためにクラブは中西を傷害で刑事告訴するぐらいしてもよかったと俺は半分本気で思っているが、とにかくこの一件があって以降ヴァスティッチは前線で身体を張ることをやめてしまった。ヴァスティッチが自陣にまで戻っての献身的な守備に精を出す一方で、前線ではウェズレイが孤立し相手チームに囲まれ徹底的に潰されていた。

 そんなヴァスティッチがやる気を取り戻したのは、皮肉にも翌年に一年の契約が切れる直前、退団が決まってからだった。契約を延長したかったというようなヴァスティッチの言葉がマスコミを通じて伝わってきたこともあったが、おそらくあれはリップサービスだろうし、(求められる役割で)100%の力を発揮していないヴァスティッチとの契約を延長せず新外国人のマルケスを連れてきたことは(結果も含め)至極真っ当な判断だったと思う。
 退団が決まってからのヴァスティッチはまるで名古屋の地に自分の名と記憶を刻もうとするかのごとくハイレベルのパフォーマンスとモチベーションを取り戻していった。ヴァスティッチにはスピードがあるわけでも華麗なテクニックがあるわけでもないが、その右足から繰り出されるキックはとにかく破壊力があり、40m級のサイドチェンジを次々と決め、強烈なシュートをゴールへと突き刺した。そして最後の瞬間に訪れたサヨナラ・ゴールもペナルティエリアの外からやはりその右足によって放たれたのだった。

 在籍期間こそ一年間と短かったが、練習に取り組む姿勢などが、当時まだ若かった中村などにとって良い手本となっていたというヴァスティッチ。そんなオーストリアの英雄を名古屋で見られたことは名古屋ファンにっては誇りだし、そんなヴァスティッチ最後の(?)晴れ舞台を一試合でも長く見ることが出来れば名古屋ファンとしては幸せだ。
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by tknr0326g8 | 2008-06-11 00:05 | PlayBACK
Play Back#6 レフティモンスター・小倉隆史の「もしも」 (後編)
 もしもあの怪我がなかったら・・・

 小倉について語られる時必ず人々が口にする言葉だ。それだけあの怪我は衝撃的だったし、ジャンプから着地した瞬間に膝が内側にくの字に折れ曲がった当時のニュース映像はそのインパクトによって小倉に関する記憶と強烈に結び付いている。

 だが俺が小倉のキャリアに思いを馳せる時思う「もしも」はこのもしもではない。
 日本サッカー史に残る出来事「ドーハの悲劇」――俺にとって小倉の「もしも」はここにある。FWと言っても単なるストライカーにとどまらずドリブル突破やセンス溢れるパスによってチャンスメイクも行えるオールラウンドタイプである小倉には、俺も実は10番が一番似合うと思っていたが、当時の日本代表監督だったオフトは、単身で自らの母国・オランダに渡り活躍するこの若者の才能をポスト・ラモスとして注目していたという。ポスト・カズではなくポスト・ラモスとしているところが――もちろんカズとラモスの当時の年齢的な問題もあるが――小倉の才能の豊かさ(広さ)を逆に際立たせているが、もしもドーハの悲劇が起こることなく日本がアメリカW杯出場を決めていたら、翌年のW杯本大会では小倉が「秘密兵器」としてアメリカのピッチを踏んでいた可能性は極めて高い。そしてW杯開幕直前のキリンカップで代表二戦目にしてフランス相手に代表初ゴールを記録してみせた小倉であれば、本大会でもその重責を十二分に果たし得たのではないか。そうなっていれば日本サッカーの歴史は今も小倉を中心に回っていただろう。「もしも」は「もしも」でしかないが・・・。

 小倉は今後解説などの仕事をしながら指導者を目指すという。天性の明るいキャラクターがTV向きであることに疑いの余地はないが、指導者としてはどうだろうか。優れた指導者に必要な資質でありながら誰にでもあるわけではない「人間的な魅力」を持つ小倉はそれだけでも指導者としてアドバンテージを有するが、彼はプレーヤー時代から単なる天才ではなく(オランダに留学していたこともあってか)意外と戦術理解にも長けている一面を垣間見せていた。インタビューやコメントを読んだり聞いたりすると、彼が決して感覚的なものだけでサッカーをしていたわけではないことが分かるし、その戦術眼の鋭さを読み取ることはそんなに難しくはない。俺にはそんな小倉は指導者としても成功する資質があるように映る。
 そして他の人には経験できなかった怪我という経験――怪我からのリハビリをベンゲルが連れてきたフィジカルコーチ・ティリーのもとで行ったいた小倉はティリーから様々な話を聞かされたという。それは単にリハビリやフィジカルの話ではなくサッカー全般に関わるもので、小倉のサッカー人生にとってもかけがえのない財産となったことだろう。同じように若くして海外のサッカーに触れ、ある意味他人では味わえない試練を経験した小倉は、W杯などの舞台こそ踏んでいないものの、人よりも深みのある話をプレーヤー達にしてやれる指導者になるに違いない。
 俺は小倉の第二の人生も応援していきたいし、将来実現するかどうかは分からないが、名古屋で指導者として再びその雄姿を見られたら幸せだと思う。
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by tknr0326g8 | 2006-02-14 17:35 | PlayBACK
PlayBack#6 レフティモンスター・小倉隆史の「もしも」 (前篇)
 少し古いネタですが、個人的にどうしても記録しておきたいので・・・

 俺にとっての初代アイドルだった小倉隆史の引退が発表された。(甲府公式

 テクニカルにしてパワフルな左足、溢れるイマジネーション、そして人を惹きつけて止まないキャラクターを持つ彼は生まれついてのスターであり、誰もがその将来に希望を抱かずにはいられないようなプレーヤーだった。
 そんな彼のプロとしてのキャリアのスタートは輝かしいもので、世に言う「四中工三羽ガラス」のひとりとして出場した全国高校サッカー選手権で優勝し準地元とも言える名古屋に入団すると、その年のナビスコカップでさっそく鮮烈なデビューを果たした。そしてJ開幕を横目にその先のキャリアを見据えひとりオランダ(フェイノールト)へと留学、そこでもその能力を存分に発揮し(さらに貸し出された)2部のエクセルシオールでチーム得点王となる活躍を見せた。この年オランダで新人王を争ったというオーフェルマルス(当時アヤックス)と小倉が後にどちらも膝に選手生命を奪いかねない大怪我を負ったことは運命のいたずらだろうか。
 エクセルシオールでの活躍を認められ1部リーグのチームからの誘いもあったという小倉が翌シーズン日本への帰国を決意したのは、28年ぶりのオリンピック出場を目指して編成されたU-23日本代表チームに合流するためだった。そして帰国後即そのU-23を飛び越えて、当時若手を積極起用していたファルカン日本代表監督によってキリンカップでフル代表にデビュー。二試合目のフランス代表との試合ではカントナ、パパン、デサイー、デシャン、ブラン、ジノラ、ジョルカエフ、ル・グエンといった錚々たるメンバーを相手に日本唯一の得点を奪ったのだった。
 Jリーグではデビュー戦となった当時の王者ヴェルディとの試合でトリッキーなフェイント(マスコミ風に煽るなら“オランダ仕込み”笑)で観客の度肝を抜くとその圧倒的な存在感で一躍時代の寵児となった。折りしも当時のU-23日本代表には、ドリブラーの前園真聖(引退)や高卒ルーキーとしての開幕戦からの連続ゴール記録を持つ城(現横浜FC)、現在の日本代表正GKである川口(現磐田)、その他にも田中誠、服部(ともに磐田)等の才能豊かなプレーヤーが顔を揃え「史上最強」だとか「ドリームチーム」といった言葉がマスコミを賑わしていた。小倉はその中心にいたわけだ。
 アトランタ五輪一次予選のAWAY・タイ戦。今でこそ(ユース世代ならともかく)負けることを想像するのが難しい相手だが、当時としては十分な強敵と言えたタイに対して、監督の西野(現G大阪監督)によって小倉は「2トップの右側」として起用された。当時の小倉は何でも出来る分「FWとしてゴールへの意欲が足りない」などと批判されることがままあったが、西野はそんな小倉を右側に置くことでボールを持った後に中に切れ込んでシュートまでという意識を強く持たせようとした。そして小倉は素晴らしいパフォーマンスを発揮する。(俺の中でもこの試合は小倉のパフォーマンス・ベスト3に入る) 右サイドから内へ切り込んで強烈な左足シュートを放ったかと思えば、前園と抜群のコンビネーション――タメを作るプレーに持ち味がある小倉にとって前園のようなボックス内への飛び出しを武器とするプレーヤーとの相性は殊のほか良かった――を披露してのチャンスメーク、そしてCKからニアサイドヘと飛び込むダイビングヘッドで自ら得点を奪った。しかし、好事魔多しとはこのことで、タイを圧倒したチームにあって終了間際タイ人プレーヤーの無謀にして悪質なタックルを膝に受け長期の離脱を余儀なくされてしまう。(それからちょうど4年後の同じくオリンピック予選でデジャビューのようなシーンが小野に降りかかるわけだが・・・)
 負傷から復帰を果たした小倉はベンゲルのもと急成長を果たしたチームでストイコビッチと2トップを形成する。リーグ戦では前半だけでベンチに下げられる試合があったかと思えば、チームの全得点に絡む活躍を見せるなどなかなかパフォーマンスが安定しなかったが、翌年初頭に行われるアトランタ五輪最終予選に向けコンディションは確実に高まっていた。そして天皇杯では決勝戦での2ゴールをはじめとする活躍で得点王に輝き、チームを優勝へと導く原動力となった。

 そして、シーズンオフも半ば休み返上のような形ででコンディションのピークを維持したまま迎えたアトランタ五輪最終予選合宿・・・誰もが知る「事故」が起こる。ひょっとしたらその事故と同じくらい、その後日本でアスリートとして満足な手術や治療が受けられなかったことが重大なことだったのかもしれないが、この後小倉が真の表舞台へと登場することはなかった。たまに表舞台へと登場する小倉は常に「悲劇のヒーロー」であり「怪我からのカムバックを目指す元スタープレーヤー」だった。

(後編へつづく) 
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by tknr0326g8 | 2006-02-13 02:35 | PlayBACK
PlayBack#5 名古屋がレフティー天国と呼ばれていた時代
 今シーズンの新加入(新卒)選手の入団発表が16日に行われた。

 今年の新人は、
 ・DF竹内彬(国士舘大学)
 ・DF片山奨典(国士舘大学)
 ・DF阿部翔平(筑波大学)
 ・MF青山隼(名古屋ユース)
 ・MF和田新吾(磐田東高校)
 の5名。

 竹内は守備(1対1)の強さに加え技術、戦術、メンタルも高いレベルで兼ね備えたCB。片山、阿部はともに左アウトサイドのプレーヤーで、ありきたりな表現を使えば片山が剛で阿部が柔といった感じ。片山はパワフルな左足のキックとオーバーラップ、阿部はテクニックとナイフのように鋭い左足のキック、といったようにともに確かな特徴を持っている。青山に関しては選手紹介#15で俺なりの思いを書いたのでそちらを参照してもらうとして、この中で実際に生でプレーを見たことがないのが和田だが、MF登録ながら静岡国体選抜として出場したSBSカップを(スカパーで)見た時はCBを務めていた。青山ともどもいずれはヨンハッの穴を埋めるようなプレーヤーへと育つことが期待される。

 今年の新人はかなりディフェンスに偏った人選となっているが、二年前の豊田×平山、去年の本田×井上と特徴こそ微妙に違えど間違いなく同じポジションを争うことになるであろう選手をセットで獲得する傾向――ちなみに去年の鴨川と杉本は同じFWだけど大きく特徴が異なるし併用も可能なのでこの範囲でない――は健在なようで、今年も片山×阿部、和田×青山あたりはポジションが競合することが予想される。これはライバルを作ることで成長を促進させる狙いなのか、只でさえ未知数な新人だけに2人獲って片方でも育てばラッキーと思っているのか・・・。

 そんな、同じポジションに新卒を複数獲得するという現象で思い出されるのが1997年だ。
 名古屋はベンゲルの時代(1995-1996)から左サイドが補強ポイントと言われていた。平野という不動のレギュラーはいるが彼にもしものことがあった場合のバックアップに人材を欠けているというのがその最大の理由だった。ベンゲルの2年目(96年)には大宮東高校からヴェルディの下部組織出身という左利きのテクニシャン佐藤悠介(現湘南)を獲得したが、それでも岡山というレギュラーに加え第4の外国人として獲得したオリビエ、ユニバーシアード金メダリストルの望月、そして喜名等が控える右SHと比べるとその層の薄さは一目瞭然で、ベンゲルはプレシーズンマッチなどを利用してしばしば岡山の左SHをテストしていた。さらに言うなら、小川という不動のレギュラーはいたもののベンゲルが一年目に好んで使ってていた(単に人がいなかっただけかもしれないが・・・)津島(現FC岐阜)が95年シーズン終了とともに解雇されてしまった左SBのポジションも本職でない西ケ谷がバックアップを務めていた状態で、翌シーズンに向けて最大の補強ポイントは間違いなくここ(左サイド)でありレフティーだった。

 そして97年のシーズン開幕を迎えるに当たり(監督は前年途中からベンゲル→ケイロスへと代わっていたが)クラブはU-17日本代表としてワールドユースも経験した中谷(奈良育英)を筆頭に、滝沢(武南)、三原(佐賀商)といった全国レベルで名の知れた高校生レフティーを次々と獲得して行った。確か当時スカウトだった沢入重雄がTVで自信満々に「補強ポイントは左サイドだったので大満足」と語っていたぐらいだから、スカウトの自己評価としては満点補強だったのだろう。しかし俺はその時疑問を感じずにはいられなかった。高校生を何人も獲得したところで、その選手が平野や小川の代役として使えるのか?将来を見据えた新人(高校生)に加えて即戦力を獲得して始めて「補強」と言えるのではないか。

 そして不安は現実のものとなった。

 問題は主に負傷が長引きそうな小川のいた左SBだったが、期待の中谷はプロの練習に着いて来られずキャンプの時点で早々とリタイア、キャンプで頭角を現した二年目の佐藤悠介も開幕までその評価を持続させることは出来なかった。そしてリーグ開幕戦で左SBのスタメンを飾ったのは本職が左MFのルーキー・滝沢で、決してそれ(滝沢)だけが原因ではないが、優勝候補だった名古屋は開幕から怒涛の連敗を記録した。補強は失敗だった。シーズン途中に慌てて横浜で出番を失っていた元日本代表DF・鈴木正治を補強したが、時すでに遅しといった感じな上、その鈴木も移籍後最初のゲームで負傷による長期離脱という不運に見舞われてしまう。

 今から考えてもこのベンゲル~ケイロス時代にかけては、とっさに名前が浮かぶだけで小倉、平野、小川、西ケ谷、パシ、リカルジーニョ、佐藤、中谷、三原、滝沢といった才能溢れるレフティーが何人もクラブに在籍していた。それから約10年の月日が経ち、クラブは再び左サイド(特に左SB)を補強ポイントとし片山と阿部を獲得した。これに前年に高卒ルーキーとして獲得していた本田、井上、さらには同年代の渡邊を加えればちょっとした左サイド復興の機運が見えてくる。片桐のチーム復帰こそ叶わなかったが、獲得に向けた交渉が報道されている玉田が前線に加わることになれば名古屋に新しいレフティーたちの時代がやって来ることも決して夢ではない。そしてそんな新時代のレフティー王国復興を前に、95~97年当時の王国最後の生き残りである中谷の柏(レンタル)移籍が決定したのには何かの因縁を感じずにはいられない。

 今年半ばでベンゲルからはや10年か・・・。
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by tknr0326g8 | 2006-01-19 02:37 | PlayBACK
PlayBack#4 クラブ史上最長監督ネルシーニョの2年1ヶ月
■クラブ史 第3期
 名古屋というクラブの歴史を監督単位で区切るとすれば、こんな感じ↓に分けられる。
・第1期:平木~ミルン
・第2期:ベンゲル~田中(サンチェス)
・第3期:ジョアン・カルロス~ネルシーニョ

 <第1期>は言わずと知れた低迷時代。その頃の名古屋は今やすっかり引き離されてしまった感のあるガンバや浦和とともに「Jのお荷物」と呼ばれていた。そしてそんなどん底状態だった名古屋に「救世主」ベンゲルが降臨、チームとしての<第2期>がスタートする。ベンゲルのもとチームは急速な進歩を見せ優勝争いに名を連ねるようなチームへと変貌を遂げた。やっとクラブとしての進むべき道筋が見えてきた名古屋は藁にもすがるような思いでその路線を踏襲、ベンゲルがアーセナルに去った後はそのベンゲルの推薦でカルロス・ケイロス(現マンチェスターU)を、さらにそのケイロスがいなくなるとベンゲル、ケイロスのもとでコーチを務めていた田中孝司を監督に据えてチームを伸ばしていこうとした。
 この第2期に養った(ある意味では「余計」な)自信を糧に、クラブとして本気で優勝を目指して(優勝を至上命題として)戦ってきたのが名古屋における<第3期>だ。クラブは優勝という明確な目標達成に向け毎年のように大型補強を行って戦力の拡充を図る一方、そのための監督選考を行ってきた。ジョアン・カルロス、ズデンコ・ベルデニック、ネルシーニョと名前だけ並べれば、南米(ブラジル)→欧州(東欧/スロベニア)→南米(ブラジル)と全く一貫性がなくその場凌ぎの監督選びを行ってきたようにも感じられるが、よーく眺めているとそこにはひとつの共通点があることに気付く――それは「Jリーグで実績のある監督」というキーワードだ。
 日本(Jリーグ)をよく知り、かつそこで結果を残してきた監督を起用することが優勝への近道だとクラブは考えた。これに関して言えばあながち間違った判断とは言えないと思う。2003年以降はTDに上田滋夢を迎えたが、それ以前のフロントは完全な(サッカーに関する)素人集団で、そんな彼等が下手に主観を入れたりせず「Jで実績のある監督」を選んできたことは、(結果はともかく)それはそれで目標に対して真摯に考えた方向性であると俺は思う。少なくともそれは、(ベンゲルを除けば)ミルン、ケイロス、サンチェスと外国人監督の選考に失敗し続けてきたクラブにとって、ギャンブル性を排したより確実な選択(のはず)だった。

 そんな第3期がまさしく今終焉を迎えようとしている。ネルシーニョは言ってみれば第3期の「Jで実績のある監督のもと優勝を命題として戦う」シリーズ三部作で、第一部:ジョアン・カルロス、第二部:ズデンコ・ベルデニックに続く第三部(完結編)だったわけだ。

 それが名古屋というクラブの歴史における俺なりのネルシーニョの位置付け。

■攻撃サッカーの名のもとに
 2003年8月、1stステージ限りで更迭されたズデンコに代わる新監督としてサン・カエターノ(ブラジル)に多額の違約金を払ってまで招聘されたのがネルシーニョだった。クラブがこの第3期においてあくまで「優勝」を命題として戦っている以上、ズデンコはそれにそぐわない監督だった。少なくともその年の初めにTDに就任した上田滋夢はそう判断した。勝利チームに勝ち点「3」が与えられる現代サッカーにおいて、優勝を狙う上で必要なのは勝利であり、勝利を得るために必要なことは失点を与えないことより得点を奪うことという考え方は順当だ。
 そういった背景も踏まえネルシーニョが最初に行ったことは、例えるならば後輪駆動型のサッカーから前輪駆動型のサッカーへの転換だった。ズデンコ時代の名古屋が守備に重心を置くあまり守から攻への切り換えに難があると判断したネルシーニョは、それまでの自陣に引き篭もって守っるスタイルから、前からボールを奪いに行くアグレッシブなスタイルへの転換を図った。前からプレッシャーを掛けてボールを奪いに行き、奪ったボールは素早く強力な2トップに預ける。そしてそこでボールが落ち着く間にトップ下(岡山)、両サイド(海本弟)、ボランチが前足に重心の乗った勢いそのままに津波のような攻め上がりを見せる。その光景はズデンコ時代には決して見られることのなかったスタイルであり、確かな勢いを感じさせるものだった。
 そしてそのスタイルはシーズン半ばにはチームが優勝争いを演じるまでにその完成度と選手の中での確信を高めて行き、怒涛のような攻撃で前半だけで4得点を奪った第8節の東京V戦、浦和初優勝の夢を砕いた第14節でひとつの集大成を迎えるに至る。特に浦和戦はその完成形と呼ぶにふさわしい試合で、ネルシーニョが就任当初何をしようとしていたかを知りたければこの試合を観ればいいだろう。

■リアクションスタイルからの脱皮
 チームとしてアグレッシブなスタイルへの転換に成功し、シーズン中盤には優勝争いに加わったものの、ネルシーニョにとって名古屋初采配となった2003年2ndステージは最終的には定位置(中位)でのフィニッシュとなった。
 シーズン途中で元ヴェルディの石塚啓二を獲得しなければならなかったことや、まさしく勝負どころだった第10節の神戸戦で当時ルーキーだった深津を先発起用せざるを得なかったり、またその試合で楢﨑の代わりに出場した本田が試合を決定付けるミスを犯したことなどを見ても分かる通り、失速の原因は選手層の薄さだとネルシーニョは考えた。そしてシーズンオフには名古屋と言えども過去に例のないような大型補強が行われる――代表経験のある秋田、岩本、大野に、ユース代表としてワールドユースのピッチに立ったばかりの角田、川島を加えた陣容は他チームと比べても決して見劣りしないものだった。ここでさらにダメ押しとも言える新井場の獲得に成功しなかったことが、後々考えれば大きかったと言わざるを得ないが・・・。

 それなりに拡充した陣容とシーズン前のキャンプからという準備期間を得たネルシーニョは次なるステップへと打って出る。ネルシーニョ就任以降半年で確かにチームとしてはズデンコ時代よりは攻撃的な姿勢が打ち出せるようになったが、それはまだネルシーニョが求めるスタイルの序章に過ぎず、さらに言うならベンゲル時代のようなリアクションスタイルでしかなかった。ネルシーニョはもっと中盤でボールをキープしてゲームを作りコントロールすることを意図していた。これはすなわちJ最強と謳われた外国人2トップを支える中盤を作り上げる作業だ。
 しかしシーズンが始まると、トップ下には急速な成長を遂げた中村が頭角を現して来たが、ボランチがなかなか定まらない。開幕以来本職のヨンデや吉村、山口Kの他、DFの大森や角田、攻撃的な中盤のプレーヤーである大野などが試されたが怪我などもありどれも定着しなかった。そしてネルシーニョは2ndステージを迎えるに当たり、苦肉の策としてDFのパナディッチを切り、ボランチにブラジルの名門サントスからクライトンを獲得する。これはネルシーニョ自身が志向するサッカーの完成に向けた肝でありまさしくラストピースだった。

■積み上げなきチーム
 ラストピースとして中盤にクライトンを獲得し、マルケスがその年Jリーグ年間ベストイレブンに選出される獅子奮迅の活躍を見せたものの、長年名古屋の最前線で身体を張り続けたウェズレイが怪我でコンディションを崩すとその調子に比例するかのようにチームは失速し、名古屋は2004年も結局目標である優勝には手が届かないままシーズンを終えた。
 だが1ステージ制となる2005年を迎えるにあたり、それまで一年半に渡って、その間に弱点と思われるポジションに補強などを行いながら指揮を取ってきたネルシーニョには確かな手応え(勝算)があったはずだ。当初は二人だけでサッカーをする傾向のあったウェズレイ、マルケスの2トップに、トップ下の中村そして右サイドの海本幸治郎が絡むコンビネーションは熟成の時を迎えつつあったし、中盤を仕切るクライトンもチームメートの特徴を掴みながらチームに馴染みんで来ていた。2004年に新井場が獲れていれば・・・というのはこの部分なのだが、この状況は俺にとっても2005年を「少なくとも優勝争い」と楽観視出来るようなものだった。

 しかし実りを収穫するはずの2005年、事態はシーズン前から予想外の方向へと動き出す。ネルシーニョのもと日本人では最重要なプレーヤーのひとりだった海本幸治郎が兄を追って新潟へと移籍してしまったのだ。さらにキャンプではDFのキープレーヤー大森の怪我による長期離脱が判明。開幕後も、名古屋のシンボルと言っても過言ではないウェズレイがリーグ戦1試合に出たのみで退団。さらには6月限りでマルケスまでもがチームを去ることになってしまった。クラブは彼等の代わりに、ヨンハッやルイゾン、藤田、中山といった最大限の補強をしたが、揃いも揃ってそれもキープレーヤーとも呼ぶべき選手達がいなくなってしまっては収穫どころではない。一人の監督に長く続けさせることのメリットは戦術の浸透やある程度メンバーを固定して戦うことによるコンビネーションの深化でチームが熟成させれていくことにあるが――これがあまりに長く続きすぎるとマンネリやそれに伴うチームとしての硬直化を招く恐れもあるが――チームは熟成を前にして新たな苗木に植え替える作業を行わざるを得なかったわけだ。

 新しいメンバーで新たに動き出したチームが収穫を迎えるのは来年かそれ以降の話でしかない。

■第4期のはじまり
 ルイゾンや藤田が完全に馴染む間もなくチームが優勝争いから脱落すると、シーズン終了を待たずしてネルシーニョは更迭された。最初にも書いたが、クラブにとってのこの第3期が「優勝」を掲げて戦うものであったことを考えればこれは必然的な結末だった。

 そしてチームは新たな<第4期>へと突入する。
 ここ数年も実は名古屋はセカンドチームを作ることで大命題の「優勝」とともに「育成」という二兎を追う政策を採っていたが、今後はより育成へとシフトした方向性を示していくことになるだろう。TDは、このシーズンオフは恒例の補強を控え伸びてきている若手を我慢して使っていくことを示唆しているし、ユースにも各年代の代表に名を連ねる(またそこで中心選手としてプレーする)プレーヤー達が育ってきている。
 第4期最初の監督となるフェルホーセンはチームを立て直せるのか。そして我慢が実を結び今の若い力が順調に伸びてくることが出来るのか。名古屋にとって第Ⅳ期はひょっとしたら冬の時代かもしれないが、願わくばそこで蒔いた種が<第5期>に黄金時代となって花開くことを期待したい。

 ※2005年の振り返りはそれはそれでまたやります。
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by tknr0326g8 | 2005-12-18 05:17 | PlayBACK
Play Back#3 名古屋が優勝に一番近付いた年(シーズン)
 シーズンがほぼ折り返し(二巡目)であるということと、頭が去年までの2ステージ制に慣れ切っているせいで、なんとなく雰囲気的に「2ndステージ開幕」のような感じがしないでもない今週末のJリーグ再開。対戦相手は、目下降格レースでトップを突っ走る神戸だ。よそ様のチームのことについてあれこれ言うつもりはないが、今シーズン既に2度の監督交代を行うなど迷走を続ける神戸はおそらく現時点では(神戸サポを除く)大多数の人間が今年の降格チームの大本命と思っているに違いない―まあそんなチームに名古屋はつい3ヶ月に完敗を喫したわけだが―。正直言って名古屋にとって「優勝」の二文字はもはや遠く霞んでしまっているが、それでも名古屋としては負けられない戦いだ。

 と、こんな試合について思いを馳せる時、俺の脳裏にふと蘇ってきたひとつの試合がある。それが1999年8月に行われたその年の2ndステージ開幕戦―ベルマーレ平塚(現湘南)との試合だ。

 未だリーグ優勝のタイトルがない名古屋が最も優勝に近かったシーズンはいつかと問われれば、俺は、ベンゲル→ケイロスという監督交代を挟みながらも最後まで鹿島、横浜Fとデッドヒートを繰り広げ、「サントリーカップ」という取って付けたようなタイトルマッチでシーズン王者の鹿島を倒して溜飲を下げた1996年よりも、一旦優勝戦線から脱落した後、怒涛の15連勝で天皇杯までぶっち切った1999年を挙げるだろう。
 最後まで優勝争いを繰り広げた96年に比べ、99年は「一旦脱落した後」ということで、得意の「帳尻合わせ」とも言えなくもないその後の戦績(連勝)に価値を見出していいものかどうかは議論の分かれるところだと思うし、俺がフロントだったら断然前者(96年)を高く評価(査定)するだろう。しかし、こと「強さ」という部分に関して言えば、99年は96年の比ではなかった。タレントひとつとっても、ピクシー、トーレスといった96年当時から在籍するスーパーな外国人は健在で、シーズン前に山口素、呂比須、楢﨑といった代表クラスのプレーヤーを補強した陣容は96年を遥かに凌ぐものだった。そして96年当時はまだキャリアの上り坂を上がり始めた段階にあった平野、大岩、望月といったプレーヤー達も代表を経験するなど成熟度を増し、キャリアのピークに差しかかろうとしていた。さらに言うなら、翌年のシドニー五輪を目指すU-23日本代表候補に古賀、福田、中谷の通称「トルシエ・ボーイズ」が名を連ねるこのチームは、ベテランから若手まで、外国人から日本人までがバランスよく備わった今で言う「(プチ)ギャラクティコ」だった。

 そんな99年は、華々しい大型補強とは裏腹に監督だった田中孝司がステージ途中で辞任するなど、チームが全く噛み合わず失意のまま1stステージが進んでいったが、最終節で浦和を8-1で破る頃にはチームとしての形が出来始めていた。そして中断期間のナビスコカップもチームとして高いパフォーマンスを披露し、実は俺の中では満を持して迎えたのが2ndステージ開幕戦だった。
 相手となったのは平塚(現湘南)で、フランスW杯後に中田英寿がイタリア・セリエAのペルージャに移籍し、さらには親会社の経営不振で呂比須やホン・ミョンボ等の主力プレイヤーを次々と放出、若手主体となったチームは1stステージが終わる頃にはJ1とJ2の自動入れ替え最右翼と目されていた。(実際記録的なスピードで降格を決めた) 名古屋にとっては何があっても負けてはならない試合だったし、誰も負けるとは思っていなかった試合だった。

 そして全ての運命を狂わせる不幸の試合が始まった。
 この試合を裁いたのは、前年のフランスW杯で笛を吹いた国際主審・岡田正義だった。おそらく俺は、大袈裟に言えば名古屋というチームの運命を変えたと言っても過言ではないこの日の主審(判定)を一生忘れないだろう。
 試合の詳細な流れとかは全く覚えていないが、ウロ覚えの記憶に残っているのは、前半のうちに古賀とウリダが、それぞれ危険なタックルによる一発赤紙と報復による二枚目の黄色というどちらも「ハァ?」な判定で退場にされたことと、そんな中この日のパフォーマンスを見る限りはその後どこかへ消えてしまったのが不思議でならない平塚のFW西本に大岩がブルンブルン振り回されていたこと。それでも名古屋は、前半常に先行される展開から二度追いつき―しかも一回は9人になってから追いつき―前半を2-2で終了したこと。そして後半、選手達の集中力が切れたのか、それとも力尽きたのかどっちかは分からないが、チームは4-2で完敗を喫した。
 アウェーとは言え(優勝を狙うのなら)勝ち点3が必須の相手に対して、前半だけで不可解な判定で二人も退場(そのうち一人は一発退場)させられたんじゃ話にならないが、この試合は古賀はともかく(笑)ウリダの退場が痛かった。ウリダは「オランダのスタープレイヤー」との前評判とは裏腹に来日して一年余りが経過したその頃でもまだ名古屋サポの間で信頼を勝ち得ておらず、この一ヵ月後ぐらいに就任したジョアン・カルロスのもと山口素とのダブルボランチが抜群のハーモニーを奏でてブレークを果たしたというのが一般的な見方だ。しかし実はウリダはこの頃にはすでにシーズン終盤のブレークを予感させるパフォーマンスを披露し、この試合の前半でも中盤でこぼれ球を拾いまくっていた。そんなウリダの退場による必然の結果としてチームは後半バランスを失った。後年の「伝説」である天皇杯・佐川急便戦といい、ウリダはゲームからいなくなって初めてその存在の重大さが分かるようなバランスをチームにもたらしていた選手だったなぁと今考えてもつくづく思う。

 とにもかくにも名古屋はこの試合で完全にリズムを崩してスタートダッシュに失敗。2ndステージ途中でこのシーズン二度目の監督交代を余儀なくされた。そして優勝の芽が潰えてから、監督交代もあってチームを立て直し、シーズン終了まで前述のような怒涛の15連勝。そして平塚は天?より与えられし(2ndステージ)開幕戦の勝ち点3と得失点差+2を全く活かせぬままJ史上に残るスピード降格を果たした。

 今にして思えば、開幕戦でのアンラッキーな敗戦を引きずって立ち直れなかったのは、監督を含めたコーチングスタッフや選手達自身の責任でもあるし、そんなメンタルの弱いチームに優勝が無理だったというのは当然の成り行きかもしれない。しかし、ステージ前のチームの状態、そしてその後連勝をでシーズンを終えたチームの状況を思い返すにつけ、俺の中では「ただの一試合」で済まされない試合だなぁ。もしもあの試合がせめてすんなり進んでいたら・・・。

 その後名古屋は毎年のように降格チームに気前良く勝ち点を献上するのがならわしになった。一番印象深かったのは2002年に年間で勝ち点15(勝利5)しか挙げられなかった札幌に勝ち点6を手土産に持たせていたことか。このジンクスからするとすでに名古屋から勝ち点3を貰っている神戸はかなり危険な状況にあるわけだけど・・・真夏のJ再開で再び神戸との一戦を迎えるにあたってそんな昔のことを思い出したりしてました。

 再開まであと3日。
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by tknr0326g8 | 2005-08-17 04:29 | PlayBACK
PlayBACK#2 ベンゲルからケイロスへ
 「プレイバック」第2回目は、クリスマス特別企画と言うことで、いつの間にか遠い記憶のようになってしまったベンゲルからケイロスまでの歴史(流れ)に関する俺なりの「解釈」です。相変わらず「適者生存」の名古屋版進化論的アプローチで。

■スペクタクルの秘密
 最近でこそ「ポゼッション」とかいう言葉が流行語になっているが、元来日本人はスピード感溢れるサッカーが大好きだ。堅い守備からの「光速カウンター」(そもそもこの言葉があること自体に日本人の嗜好の一端が表れている) は上手くハマれば格上の強豪チームだってチンチンにやっつけるられるし、その爽快感はサポーターを酔わせること受けあい。日本では下手なパスサッカーよりもこっちの方が確実に客を呼べる。バレンシアでは「守備的過ぎてつまらない」と受け入れられなかったクーペルも日本でなら賞賛されるかもしれない。
 ベンゲルのサッカーが瑞穂のサポーターに歓喜を呼んだ「一因」は実はここにあると俺は思っている。(ただ「一因」であってそれが全てではない。)
 というわけで、まずはそんなベンゲルの攻撃戦術をおさらい。攻撃はボールを持った相手のタテを切ってプレスを掛け追い込む所からスタート。そしてボールを奪ったら...

浅野、デュリックス、ピクシーのうち誰かが「逆サイド」のDFラインの裏のスペースへサイドチェンジ(1)                        
                 ▼
タテに抜けたウイングハーフがゴールラインまで一気に深くえぐる(2)
                 ▼
FWのひとり(小倉)が相手DFを釣りながらニアサイドへ(3)
                 ▼
ウイングハーフがその頭を越えるようにフワッとしたセンタリング(4)
                 ▼
ファーサイドやゴール中央の空いたスペースに走り込んだ逆サイドのWH、もうひとりのFW、ボランチがシュート(5)

 当時のゴール集とかいうものがあれば、流れるようにつながった美しいゴールのいくつかはかなりの確率でこの形に当てはまるはずだ。そしてこの「形」はとても理に適っている。相手ディフェンスが一番薄い所を付き(1)、1対1で対応する間もなく、中のDFが一番嫌な角度からセンタリング(2)、陣形が整っていない相手がガチンコでぶつかれる唯一の可能性を残したニアサイドで無理に勝負することもなく(3~4)、戻りながらのDFと前を向いたアタッカーとで勝負(5)。もちろんゲームの中ではその状況に応じて派生的なパターンも発生し、例えばピクシーがアウトサイドのワンタッチコントロールで中西哲生のゴールをアシストした有名なシーン。長良川でのG大阪戦だったと思うが、左サイドでボールを奪った津島がすぐさま右サイドでDFラインの裏に構えていたピクシーにサイドチェンジを出し、ピクシーがそれを右足のアウトサイドでダイレクトに!ボックス中央のスペースに落とし、後ろから走り込んで来た中西哲生がゴールしたシーンとかも根底にある考え方はこのパターンと言える。もっと抽出して言えば、ベンゲル時代の名古屋では、相手DFを崩すために選手達は「ボールを奪ったら相手の守備陣形が整う前に一気に攻め切っていた」し、その中で「サイドチェンジを有効に使っていた」し、「前線ではダイアゴナルなパスが飛び交っていた」
 そしてベンゲルのサッカーで最もスタジムが沸きサポーターの脳裏に今でも鮮烈な印象としてこびり付いているのは、ピクシーのファンタジーを除けば恐らく(2)の両ウィングハーフ(平野と岡山)が爽快なスピードでサイドを切り裂く姿ではなかったか。名古屋系の掲示板で今でも「サイド」やそのプレースタイルに拘りを持つ人達が多いのも、俺にはその名残りのような気がしてならない。
 理に適った戦術で陣形の整っていない相手を振り回し、スピード感溢れる突破を武器に得点を奪うスタイルとそこにピクシーという「スパイス」が加わる攻撃。さらにこれまた日本人が大好きな「戦術」や「組織」といったイメージを満足させるに足る美しく統制された4人のDFがラインを高く保って相手をオフサイドトラップに陥れるディフェンス。これらがベンゲルサッカーが名古屋において「スペクタクル」と呼ばれサポーターを歓喜していた理由。そして最後にもうひとつ忘れてはいけないのが「勝利」。バブルが弾けたJリーグにおいて、ベンゲル率いる名古屋は内容とともに、勝つことによってサポーターをスタジムに呼び寄せていた。

■ピクシー プリーズ!
 ベンゲル時代の名古屋を語る上で外せないのが選手として第二のピークを迎えていたと言っても過言ではなかったピクシーだ。名前だけでなくそのプレーはピッチ上で絶大な存在感を放っていた。まあピクシーに関しては簡単には書ききれないのでまた改めて書くとして、その卓越というか超越した技術は、チームに「ピクシーに預ければなんとかなる」という思いすら生んでいた。例えばさっき書いた基本的な攻撃のパターンの最初のステップとなる(1)で上手くサイドチェンジが出来なくても、奪ったボールをピクシーに預ければキープして絶妙なタイミングでサイドを走らせてくれる(つまり(2)のステップへの移行)し、時にはそんなプロセスを経なくても相手を崩して決定的なラストパスを供給してくれる。ピクシーの絶対的な存在と信頼感は、チームを前へと向かわせる勢いを付ける上でもなくてはならない存在だった。実際にベンゲルも「困ったらピクシーに預けろ」という指示を出していたという話もあり、ピクシーそのものが「戦術」という側面も持ち合わせたいたのである。まあそれは悪い方向に回り出せば「ピクシー プリーズ!」なんだけど。

■リアクション・フットボール
 現在はプレミアリーグのアーセナルにおいて美しくパスのつながる流麗なサッカーを展開しているベンゲル。だが、今アーセナルでやっているサッカーと当時の名古屋のサッカーは、全くとは言わないまでもほとんど別物だ。さっき書いた内容からも分かる通り、名古屋でのベンゲルのサッカーは「リアクション・フットボール」だった。チームは性質上、当時のセレッソのような最初から引いてくる相手には滅法弱かった。成長著しい日本人選手達もスペースを消された上で主体的にボールを持たされてもなす術がなかった。そして研究されてくるとどのチームも両サイドの「タテ」をとにかく切る。1対1に絶対的な強さを持つ例えばフィーゴのようなサイドアタッカーがいるならまだしも、平野も岡山もスペースがないとその力をまだ発揮することが出来ない。名古屋はまさしく「翼をもがれた」状態だった。そして「ピクシー プリーズ」。そんな中でもなんとか勝ち点を拾えたのはセットプレーの恩恵で、トーレス、浅野といったヘディングが強かったプレーヤーに加えピクシーの天下無双のキックが名古屋にとっては「蜘蛛の糸」だった。
 そしてベンゲルは在任二年目の96年シーズン半ばアーセナルに去った。研究され対策を練られた状況をどう打開するか、チームをリアクション・フットボールからいかに発展させていくかという課題を残したまま。
 選手のレベルを考えれば、チームが取るべき戦術として「リアクション・フットボール」と「DFラインを高く保ってのプッシュアップ」が唯一の選択肢だったかもしれない。しかしそれゆえの不安定さ(5-0で勝ったかと思えば0-5で負けたり等)やチームの限界も存在していた。そしてその解決も含めて後任を任されたのがベンゲルの紹介でやって来たポルトガル人のカルロス・ケイロスだった。

■世界を先取り「4-2-3-1」
 シーズン途中にMLSから名古屋にやって来たケイロスは「サッカーはショータイムだ」との信念を披露しサポーターにスペクタクルを約束した。その年のJ1が1シーズン制でチームが優勝争いをしていたこともありケイロスはシーズン中は基本的にベンゲルのやり方を踏襲する方法を選んだが、その中で少しづつ自分の「色」も出していった。そのひとつが4-2-3-1システムだ。今や「スペクタクル」の代名詞ともなっているリーガ・エスパニョーラにおいて数年前から主流になっているこのシステムは、フランスW杯後の98-99シーズンにヒディングがレアル・マドリーに持ち込んだのがスペインにおける起源とされているから、その2年も前に4-2-3-1を「サイドアタック」と「中盤でのボールキープ(支配)」という同じコンセプトからの発想(←ここが大事)で採用していたのだから、名古屋のサポーターは誇りに思っていい。もちろん、かの杉山茂樹が妄信的に騒ぎ出すよりも、原博実がスペインから「輸入」して東京に持ち込むよりも遥かに前の出来事。
 シーズン終盤の鹿島との文字通りの天王山@カシマスタジアム。ケイロスはこの日初めて4-2-3-1を採用した。ケイロスの狙い通り4-2-3-1は名古屋の選手達のスタイルにバッチリとフィットし、試合開始から鹿島を寄せ付けなかった。しかしセットプレーから先制点を奪うも、大岩が怪我の治療でピッチを出ている間に同点弾を喰らい一気に逆転されてしまった。最終スコアは2-4。結局その年は鹿島がシーズン優勝を果たした。その後に、リーグ戦の1位&2位とナビスコカップの1位&2位でタスキ掛けトーナメントやった「サントリーカップ チャンピオン・ファイナル」とかいう良く分からないタイトルで鹿島を破って優勝し、鹿島のお祝いムードをブチ壊したのがその年のせめてもの気安め。そしてそのサッカーは翌年に向け期待を抱かせるに足るものだった。

■リアクションからアクションへ
 新シーズンが始まるとケイロスは自分のカラーを打ち出した。コンセプトはリアクションからアクションへの転換、そして安定した戦いの出来るチームだった。システムは前年からテストしていた4-2-3-1を継続採用。DFは高いラインを止めプレスを掛ける位置も少し下げた。そして最も特徴を出したのが攻撃面だ。それまで速攻一本槍だったチームに「中盤でのボールキープ率の向上」という概念を持ち込み攻撃のバリエーションを増やそうとした。ピクシーが絡む場面を除けばシンプルなパス交換からウイングハーフを走らせるサイドアタックぐらいしかなかったベンゲル時代に比べ、サイドの選手が1対1の場面で積極的に内側に(ゴールに向って)ドリブル勝負を仕掛け、ベンゲルの時には守備専門だったサイドバックがオーバーラップを敢行し、ボランチがクロスオーバーを仕掛けるといった試みがケイロスのカラーだ。ポジションはより流動的になった。キッチリ組織を固めて守る相手を崩すには自分達も変化をつけたりバランスを崩して攻めなければならないというわけだ。
 ボールをキープし自分達でゲームをコントロールしようとする姿勢、そして(時にはバランスを崩してでも攻めるため)簡単にボールを失うことは命取りになるという危機感から、ケイロスの元ではベンゲル時代不動のレギュラーだった浅野や岡山とった足元の技術・ボールコントロールに難のある選手よりも望月のようなプレーヤーが重宝された。一度だけ試された大岩のボランチ起用もこの意図を反映してのものと思われる。まあこの大岩ボランチ起用にとどまらず、飯島のフリーキッカーとか、ケイロスの発想は全てを白紙に戻してのスタートだったし、「複数のポジションをこなさなければいけない」という今では当たり前のことを選手達に要求していた。

■悪魔のサイクルと「ビジネスシステム」
 そんなケイロスにとって不運だったのはシーズン前からいくつかの誤算が続いたことだ。まずはデュリックスの突然の退団。これによってチームは中盤の核を失ってしまった。後釜に獲得されたブラジル人のリカルジーニョはまだ20歳そこそこの若い選手で、キャリアも浅くとても多くを望めるような選手ではなかった。「怪我」もケイロスを悩ませた要因。まずはベンゲル時代不動の左SBだった小川の怪我による離脱。リーグ開幕戦でそのポジションに入ったのは高卒ルーキーの滝沢だった。リーグ戦が始まって横浜Mで出番を失っていた元日本代表の鈴木正治を獲得したものの、その鈴木も移籍後初試合でいきなりの大怪我を負ってしまう悲運。そして小倉。一年前のアトランタ・オリンピック・アジア最終予選に向けた合宿で起こった悪夢から復活を果たした小倉だったが、右膝の状態は小倉自身がそのパフォーマンスを発揮するには程遠く、オランダに渡っての再手術が決定した。
 この年のJリーグはリーグ戦開幕前にナビスコカップのグループリーグがあるという変則日程で、ナビスコカップのグループリーグこそ1トップをピクシー、望月、平野等で回しながらなんとか乗り切ったが、肝心のリーグ戦はトーレスが出場停止だった開幕戦を接戦を落とすと怒涛の6連敗。この頃にはケイロスのスタイルが悪い方向に回り始めていた。ボールを持ってもドリブル勝負等すぐにパスが出ないから周りの選手は動くタイミングをつかめない→そして周りが動かないからパスを出すタイミングを失う→そして周りの選手が…という完全な悪循環。チームは悪魔のサイクルにはまり込んでいた。何人かの主軸選手の不在、そしてケイロスが求めることを消化し実践できない選手達。
 そんな中で迎えたのがホーム瑞穂での浦和戦だ。ケイロスは自らの「サッカーはショータイム」という信念を捨て、マンマーク気味の3バックを採用した。まずは守備ありきのその戦い方をケイロスは結果を出すための「ビジネス・システム」と呼んだ。後にどこかで聞いたような戦い方だが(笑)、チームはその試合で浦和に3-1で快勝すると、その「ビジネス・システム」をベースとした堅い守備からの速攻を武器に今度は破竹の5連勝。勝ってる時はいいが一旦負けだすと止まらなくなるという、後にズデンコが指摘した日本人選手のメンタルの欠点。結局優勝を期待された1stステージは期待外れの12位という順位で終了した。

■終焉から回帰へ
 2ndステージ。ケイロスの要望でベンフィカのアイドルだった元ブラジル代表のバウドを獲得し、チームは優勝を目指して再スタートを切った。しかしこのバウドがフィットする前にシーズンは終わってしまった。事件は2勝1敗で迎えた第4節、因縁のカシマスタジアムでの鹿島戦で起こった。そう、ピクシーが「サッカー人生最大の屈辱」と語ったあの試合。その日カシマスタジアム上空には強い風が舞っていた。なぜかフリーだったビスマルクの右足から繰り出されるハイボールを先発出場の古賀がことごとく目測を誤りバウンドさせては相手FWにさらわれた。「右往左往」という言葉を実写化したらまさしくこんな感じ。鹿島に計7点をブチ込まれての完敗。スコアは7-0だった。ルーキーだった古賀は泣きながらピッチを後にした。そしてこの試合で実質この年の名古屋の2ndステージは終了した。その後は勝ったり負けたり。最終的には帳尻合わせで5位まで順位を上げたけど…。
 ケイロス続投に向けて最後の「試験」となったのはナビスコカップの決勝トーナメントだ。ケイロスもまさかこの決勝トーナメントが自分の命綱になろうとは、リーグ開幕前にグループリーグを戦っている段階では思ってもいなかっただろう。このタイトルを取っていたらひょっとすればケイロスは続投していたかもしれない。しかしここでも準決勝で鹿島に苦杯を喫する。そしてケイロスは解任された。その後南アフリカやUAEの監督を経てマンU、マドリー等ですっかり大物になったから言うわけではないが、個人的にはもう少し見てみたかった監督だった。少なくともそのサッカーに対するフィロソフィーみたいなものは俺の好みだった。
 名古屋の次期監督に選ばれのはベンゲル、ケイロスの元でコーチを務めてきた田中孝司。そしてクラブが掲げたテーマは「ベンゲル時代への回帰」だった。
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by tknr0326g8 | 2004-12-24 12:50 | PlayBACK
PlayBACK#1 ズデンコからネルシーニョへ
 シーズンオフ企画「プレイバック」第1回目は、ズデンコからネルシーニョへの流れ。前にここで中村のボランチ起用を提案した時、「elephant stoned」のmijacさんから、ズデンコの時のボランチとはどう違うのか?という疑問を頂いて、そのままになっていたのもあるのでそれに関する俺なりの返答も含めて書きます。

■守備のための守備
 ズデンコのやり方は、簡単に言えば相手にスペースと自由を与えないサッカー。それは守備のための守備だった。ボランチやサイド、状況(対戦相手)に応じてトップ下やFWまでもが参加し相手プレーヤーに対して忠実なチェック&チェースを繰り返すが決して無理はしない。ボックスの周りでいくら相手にボールを持たれても、最後は真ん中で跳ね返せばOK。そんな「最後の砦」には、人に強い二人のストッパーとカバーリングに長けた一人のリベロ、そしてハイボールに強い日本代表GKが文字通り待ち構える。そしてここが相手から自分達にボールの所有権が移るポイント。
 このやり方によってある程度失点を減らすことは出来たが、逆に最終ライン(GK)でマイボールになっても、そこから全体を押し上げて攻撃に移れることは稀だった。中盤でボールをつないでいくわけでもなく、大抵は最終ラインから前に残ったウェズレイに向って長いボールが一本。恐らくズデンコはそこでウェズレイがボールをキープし、その間に全体が押し上げてそこから展開していくスタイルを意図していたのだろうが、実際のピッチ上でウェズレイに向って蹴られるロングボールに込められたメッセージは「行ってらっしゃい」だった。バランスの悪い「守」から「攻」への切り替えは、守備的なチームでセット販売されるべきカウンターすらままならず、前線で孤立したウェズレイは二人掛かり三人掛かりのマークに潰された。その頃からだ、ウェズレイが相手DFとの競り合いの中でよく転ぶようになったのは。

■「戦術はパナディッチ?」
 逆の見方をすれば、一方でズデンコはチームに「規律」を植え付けることに成功していた。しかしこの「規律の浸透」をもって「組織が機能していた」と言うのはちょっと違うような気が俺はしている。なぜなら、俺はあの守備のやり方が最終的にはパナの「個の力」でもっていたと思っているから。シーズン中も何回か書いたけどパナディッチのリベロ(スイーパー)としての能力は名古屋はもちろんJのレベルでも群を抜いていた。危険な場所(スペース)を未然に察知し、確実に先回りするカバーリングとシュートコースのブロック。それは日本代表クラスのDFをひとり連れてきた所で補えるものでは到底なかった。そしてそんなパナによって、相手に崩された名古屋の守備(ズデンコ)は何度も救われた。それは、ひょっとしてズデンコがパナのカバーリングから逆算して鉄壁の守備を築いていたのではないかとすら思えるほどだった。

■心理的なマネージメントのまずさ
 そしてズデンコを語る上で欠かせない要素として、彼はお世辞にも選手のココロを掴みそしてコントロールするのが上手いとは言えなかったと俺は思っている。一つ例を挙げると、開幕前には「優勝候補」に挙げられつつもクラブ史上最低順位に沈んだ一年目(2002年)の2ndステージ、当時日の出の勢いにあった京都との対戦。試合はシーズン終盤でチームは既に4連敗を含む低迷に喘いでいた。それでも前節ホーム瑞穂で仙台に快勝(3-1)して迎えた試合。その試合でズデンコは相手の3トップ気味の布陣に合わせてシステムを4バックに変更した。4バックと言っても、3人のストッパーの後ろに1人のリベロを置いたサッカーの古典の教科書に出てきそうな布陣。試合は逆転負け。試合後ズデンコは選手達の「自信のなさ」「(選手の)自分自身に対する自己評価の低さ」が敗戦の要因のひとつであると指摘した。そりゃそうだろう。前節久しぶりに快勝してメンタル的にも少し上向きかけたところで、また次の試合に向けてやり方変えてたんじゃ、選手達に自信を持てと言う方が無理。破壊力があり前線にタレントを揃えた当時の京都の3トップに対して、自信を持てずに怖がっていたのは…そして自分(のチームの選手)を評価(信頼)していなかったのは、ズデンコ自身ではなかったか。「ピッチ上の選手は監督を映す鏡」、ピッチ上で自信を失ってプレーしている選手達の姿がすなわち自分自身だということに「知将」ベルデニックが気付くことはなかった。
 もしも俺がフロントだったら、この発言もあったし、一年やってきて要望通りのハイレベルな外国人を補強して臨んだ2ndステージにクラブ史上最低順位という成績になった時点でズデンコは解雇していたかもしれない。しかしフロントは我慢した。これまでと同じ轍は踏むないと思ったのかもしれない。そしてこれが功を奏し、中村、吉村をはじめとする何人かの選手が翌年大きな伸びを見せた。これは間違いなくフロントとズデンコの功績。

■ズデンコの求めたボランチ像
 ズデンコ政権が二年目に入る時チームに大きな変化が起こった。それまでチームの主軸としてプレーしてきた山口素が戦力外になったのだ。クラブとして「若返り」の意図もあったが、山口素の戦力外を決めたのはズデンコだったと言われている。ズデンコはその思い描く戦術上、守備では動き回れて中盤で確実に人を捕まえられ、そして攻撃に移った時には前線まで駆け上がれるような機動力ある選手を求めていた。
 逆に山口素にとっても、攻撃時にボールが自分の頭の上を通過していく状況には自らのスタイルとの間で違和感を感じていたはずだ。これでは自分の良さは出せないと。チームのために我慢してプレーしてくれていたが、シーズン終盤にはその口からはしばしば戦術に対する不満も漏れ始めていた。
 そんな「パラダイムの転換」とも言える中ボランチに台頭してきたのが「ムラムラコンビ」だ。これが当たった。吉村は大卒二年目。1対1の対応に課題を残すものの、フィジカルに秀でたプレーヤー。中村は前年までトップ下でプレーしていたが、ズデンコの構想ではアタッカーに「キープ力」が重視されたため、シーズン前に広島から獲得された藤本トップ下に定着するとポジションをひとつ下げることになった。二人は守備では忠実なチェックとチェース、スペースのカバーを行いながら、攻撃では時にリスクを冒し前線に飛び出すといったズデンコのイメージを具現化しようとしていた。そして二人の成長はチーム力自体も少し上に伸ばした。ちなみに、中村は当初右サイドでプレーするプランもあったから、ひょっとしたらこのボランチコンビは偶然の産物かもしれない。そしてひとつ付け加えれば、過度の運動量を強いられたボランチコンビ(特に中村)は2ndステージが始まる夏頃にはコンディションを崩して、ほとんど使い物にならなかった。

■「勝ち点1」の限界
 しかし最終ラインでボールを跳ね返すことから逆算した戦術は、攻撃への移行への問題を解消し切れず、チームは「負けずとも勝ち切れない」引き分けを積み重ねていく。勝利チームの勝ち点が「3」で引き分けチームのそれが「1」である現代サッカーにおいて、そして優勝を狙うことが使命とされるチームにとって、これは致命的とも言えた。勝ち点の伸びと同様、チーム自体の成長にも再び停滞の兆しが見え始めると、ズデンコは1stステージ限りで解任された。最終戦の後選手に胴上げされたのがせめてもの救いだった。よく「積み上げ」とか「連続性」とか言われるが、ズデンコの教えを土台に更なるステップアップが出来るかどうかは、胴上げをした選手たち自身にかかっている。

■攻撃的オプション「3-3-3-1」の真実
 二年目を迎えるに当たってズデンコがシーズン前から構想を温め「攻撃的なオプション」として注目された3-3-3-1。しかし、ズデンコが1stステージ限りで解任されたこともあり、これはほとんど日の目を見ないまま幻となった。そして「アルゼンチン代表をモデルにしている」という発言もあり、世の中的にはこれが「攻撃的なオプションだった」というのが定説になっている。しかし俺はこれが決して攻撃的なオプションだったとは当時思えなかったし、今も思っていない。なぜなら、その3-3-3-1の考え方の根源あったのは「(守備時において)効率的にスペースを埋められる」というコンセプトだったからだ。これは当時、Jskysportsの「Football anti-climax」の中でズデンコ本人が語っていたことだが、3バックには「両サイドのスペース」という欠点が存在し、4バックにはリベロがいない分DFラインの「裏のスペース」という欠点が存在する。だからそれを補うために、3バックの前にダブルボランチではなく3人の選手を並べ、その両サイドの選手がサイドのスペースを消すのだと。そして薄くなる真ん中は中盤の人数を増やすことで対応する。つまり3-3-3-1は、「自由に使われると危険なスペースを選手の配置によってあらかじめ消す」ことを念頭に考えられたフォーメンションなのだ。
 俺の記憶が確かなら、一度だけ明らかに試合開始からこの3-3-3-1のフォーメーションを試した試合がある。それが2003年4月26日 1stステージ第5節・柏戦だ。しかし、結果こそ1-1の引き分けだったが、このシステムが機能したとは言い難かった。そもそもズデンコの考える3-3-3-1は、トヨタカップを制したファンハール時代のアヤックスの3-4-3のように、ピッチ全体により均等に選手が散らばってスペースを網羅するシステムだ。しかし逆に言えば、これはピッチの至る所で1対1が発生するということにもなり、守備でも攻撃でも「個の強さ」がないと成り立たない。名古屋の選手はこの試合、各場面の1対1で負けまくった。そして試合は必然的に劣勢になった。これが名古屋版3-3-3-1の現実。

■ネルシーニョ政権へ
 ズデンコの解任を受け、チームにやって来たのがかつて黄金時代のヴェルディを率い、当時日本代表監督候補にもなったネルシーニョだった。ネルシーニョに課せられた課題は、「攻撃」「得点」そして「勝ち点3」。だからネルシーニョのゲームプラン(守備)は攻撃からの逆算だ。コンセプトは「より高い位置でボールを奪ってからの速攻」。そして「守→攻」と「攻→守」の切り替えにおける適切なポジショニング。
 そしてズデンコが選手のメンタル面のマネージメントに決して長けていたわけではなかったのとは対照的に、ネルシーニョは以前からこの部分には定評があった。名古屋でもその一端がさっそく披露される。来日してすぐの2ndステージ開幕となる鹿島戦。怪我人の事情もあったが、ズデンコ時代には全く出場機会のなかったヨンデをいきなり先発起用。試合後「練習を見ていて、彼(ヨンデ)にはチャンスを与えなければいけないと思った。」というようなことをマスコミの前でコメントした。これはサブやサテライトを含めたチーム全員のモチベーションアップを意図したものだろう。

■ネルシーニョが求めるボランチ像
 ネルシーニョのサッカーのコンセプトが「高い位置でボールを奪ってからの速攻」である以上、彼のチームにおけるボランチには、相手から「ボールを奪うこと」とそのボールを「前線まで運ぶこと」が要求される。そして「速攻」が叶わなければ、ボランチを中心として中盤でボールを回してゲームを組み立てなければならない。実際かなりの運動量は要求されるが、攻撃面で求められる要素を考えると、もしも山口素がまだ名古屋にいたら結構重宝されて今もレギュラーポジションをキープしていたような気がしないでもない。ブラジル人ってあんまり年齢を気にしないし、確か昔名古屋にいたバウドも去年40歳ぐらいで現役やってたっていう話聞いたし。今年はどうか知らないけど。
 ネルシーニョが就任した当初のイケイケ ドンドンな頃と比べると、1年が経過した今年は、チームが全体的に引き気味に網を張って、中盤でボール奪って(引っ掛けて)速攻という形が多くなった。上手く機能している時は追い込んでインターセプトしたり、囲んでボールも奪える。しかしカウンターとかで一旦後手に回ると、1対1で無理にボールを奪いに行ったり振り切られそうなのを手で止めてファールを取られる場面も目立った。これを解決するためにも、チームとしてはもっと攻守の切り替えを早くしていいポジションを取らなければいけないし、ボランチにも「人への強さ」と「前線へボールを供給(運ぶ)」という両面で更なるレベルアップが必要。今ネルシーニョがボランチの補強(阿部/市原)をフロントに要請していることからもそれは明らかだ。
 シーズン中から指摘してきたけど、今の「運び屋」クライトン(なんとなくいい響き…見た目にもピッタリだし。(笑)) と「潰し屋」吉村のコンビはいい組み合わせのように見えて、実は結構バランスが悪い。コンビネーションを深めることと合わせて、今こそが「生え抜き」の意地の見せ所ですよ!吉村さん。「ボランチに阿部(補強)なんか要りません」というプレーを見せて下さい。
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by tknr0326g8 | 2004-12-21 19:42 | PlayBACK
playback#序章 名古屋的進化論
 先週天皇杯の5回戦で敗退したことで、完全なシーズンオフ。まあ今の時期、ある意味シーズン中以上に熱く、気持ちの入った、粘り強い戦いが繰り広げられていて、シーズン中には聞き慣れない「プライド」とかいう言葉がその口から飛び出すのには閉口させられるけど、シーズン中も名古屋のユニフォームに袖を通すことにプライド持ってやってください。

 で、シーズン開幕までこんなの追っ掛けてても仕方ないので、シーズンオフ企画。「プレイバック」ということで、名古屋の歴史…というよりそれに対する俺なりの「解釈」を書いていきたいと思います。

 基本的に俺は完全な楽観主義者じゃないけど、名古屋というチームが時代が進むに連れていろんなものが積み重なってそれが血肉になってると思ってるし、時にはバックステップも踏むけど、三歩進んで二歩下がるみたいな、そんなイメージで思ってて、おそらく突っ込み所満載な思い込みは『ダーウィンの進化論』みたいなもんです。

 というわけで、第一回目は近場で「ズデンコからネルシーニョへの流れ」でも取り上げようと思います。以降、時代の順序を問わず思い付いた順に書いていって、「スターウォーズ」シリーズみたいに最終的に話がつながればいいかなと。
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by tknr0326g8 | 2004-12-19 20:43 | PlayBACK