Grampus Diary from TOKYO
by tknr0326g8
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マルケス横浜へ
 横浜がマルケスの獲得を発表した。(横浜公式

 二年間名古屋でプレーしワールドクラスのプレー(言い換えるならば「お金を取れるプレー」)でサポーターに数々の歓喜をもたらしたマルケスへの愛着はもちろんあるし、マルケスの実力の疑いの余地はないが、こうと決まってしまった以上はマルケスの「流出」を嘆くよりも、どうやってマルケスを止めるか?を考えることに頭を切り替えなければならない。

 マルケスが名古屋プレーした二年間、正直マルケスが完璧に抑えられた試合というのはほとんど記憶にない。もちろんゲームの中でマルケスが孤立させられ、マルケスまで満足にボールが行き渡らない状態で結果チームが完敗を喫した試合はいくつもあったが、マルケスは松田(横浜)や坪井(浦和)、鈴木(磐田)といった1対1の強さに定評のあるJ屈指のDF達をことごとくチンチンにやっつけてきた。そんなマルケスを古賀や増川といった名古屋のDFが止められるかといえば、俺にはとうてい悲観的な観測しか浮かんで来ない。

 しかしそんなマルケスが1対1のガチンコ勝負で完璧に抑えられた試合というのが(俺の覚えている限り)一度だけある。それが2004年の2ndステージのジェフ戦だ。坂本にマンマークで付かれたマルケスは全く仕事が出来なかった。得意のターンは全て封じられ、中にボールを入れることすらままならない状態でボールはしばしば虚しくゴールラインを割った。その日のマルケスは決して調子が悪いわけではなかったが、研究し尽くしたかのような坂本の読みに全て先を越されているようだった。普段のマルケスは研究されたところでさらにその上を行くプレーをするのだが、マルケス封じのキーワードはこの試合での坂本にあると見て間違いはないだろう。
 重要なのはターンの方向やタイミングといった傾向をキッチリ頭で把握しておくことと、もうひとつは決して右足の前を空けないことだ。マルケスは左サイドで得意のヌルヌルとした(そして時にシャープな)ターンを駆使してのチャンスメークを得意としていて、そのターンは大抵ゴールラインに向かってタテに抜けるプレーへとつながるが、それを予測して先に動きすぎると急激なストップから空いた右足を振り抜いてくる。決して右足だけのプレーヤーではないし、タテに抜ければ左足で折り返しのボールを入れてくることも多いが、左寄りのポジションからカーブを掛けるようにゴールを狙ってくる時の彼の右足はナイフのように鋭い。

 そしてもちろんマルケスにも弱点はある。俺が見つけられたのは二年間でたった二つだけだが、後はチームスタッフによるスカウティングに期待するしかない。
 一つ目の弱点は中学生レベルのヘディング。末期にこそニアサイドに走り込んで後ろにスラすようなプレーを覚えた(レパートリーに加えた)ものの、クロスが上がってマルケスが中央で待ち構えていたとしても、DFは基本的には何もしないでいい。マルケスに気を取られる余裕があるならニ、三人掛かりで久保を押さえつけてるべきだ。あとはマルケスが勝手にヘディングシュートを外してくれる。GKも決して事前に予測して飛んではいけない。マルケスのヘディングがジャストミートすることは吉村のミドルシュートが枠を捉えることのように稀だから、先に飛んでしまっては当たり損ないのシュートにかえってタイミングを外されることになる。
 二つ目の弱点は意外と熱くなりやすい性格。削られてレフェリーが笛を吹かなければ必ず削り返してくる。そしてそれは露骨な体裁を取ることがほとんどでレフェリーのカードの餌食になる。フェアプレーとは一線を画す汚い作戦であり、以前の盟友に対して行う類のプレーではないが、どうしてもマルケスを止めたければその方法でマルケスをピッチから追い出すのもひとつの手ではある。まあただ、マルケスがそれで二枚目のイエローカードをもらったシーンは見たことがないけど・・・。

 よそのチームの心配をする以前に、Jリーグで最も重要なポジションと言っても過言でないFWのポジションに計算を出来るプレーヤーが玉田しかいない自分達の現状を心配すべきだが、とりあえず今年のJリーグでは「マルケスを見る」というもうひとつの楽しみが増えたことだけは事実だ。
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by tknr0326g8 | 2006-02-16 14:36 | Topics & Issues
Play Back#6 レフティモンスター・小倉隆史の「もしも」 (後編)
 もしもあの怪我がなかったら・・・

 小倉について語られる時必ず人々が口にする言葉だ。それだけあの怪我は衝撃的だったし、ジャンプから着地した瞬間に膝が内側にくの字に折れ曲がった当時のニュース映像はそのインパクトによって小倉に関する記憶と強烈に結び付いている。

 だが俺が小倉のキャリアに思いを馳せる時思う「もしも」はこのもしもではない。
 日本サッカー史に残る出来事「ドーハの悲劇」――俺にとって小倉の「もしも」はここにある。FWと言っても単なるストライカーにとどまらずドリブル突破やセンス溢れるパスによってチャンスメイクも行えるオールラウンドタイプである小倉には、俺も実は10番が一番似合うと思っていたが、当時の日本代表監督だったオフトは、単身で自らの母国・オランダに渡り活躍するこの若者の才能をポスト・ラモスとして注目していたという。ポスト・カズではなくポスト・ラモスとしているところが――もちろんカズとラモスの当時の年齢的な問題もあるが――小倉の才能の豊かさ(広さ)を逆に際立たせているが、もしもドーハの悲劇が起こることなく日本がアメリカW杯出場を決めていたら、翌年のW杯本大会では小倉が「秘密兵器」としてアメリカのピッチを踏んでいた可能性は極めて高い。そしてW杯開幕直前のキリンカップで代表二戦目にしてフランス相手に代表初ゴールを記録してみせた小倉であれば、本大会でもその重責を十二分に果たし得たのではないか。そうなっていれば日本サッカーの歴史は今も小倉を中心に回っていただろう。「もしも」は「もしも」でしかないが・・・。

 小倉は今後解説などの仕事をしながら指導者を目指すという。天性の明るいキャラクターがTV向きであることに疑いの余地はないが、指導者としてはどうだろうか。優れた指導者に必要な資質でありながら誰にでもあるわけではない「人間的な魅力」を持つ小倉はそれだけでも指導者としてアドバンテージを有するが、彼はプレーヤー時代から単なる天才ではなく(オランダに留学していたこともあってか)意外と戦術理解にも長けている一面を垣間見せていた。インタビューやコメントを読んだり聞いたりすると、彼が決して感覚的なものだけでサッカーをしていたわけではないことが分かるし、その戦術眼の鋭さを読み取ることはそんなに難しくはない。俺にはそんな小倉は指導者としても成功する資質があるように映る。
 そして他の人には経験できなかった怪我という経験――怪我からのリハビリをベンゲルが連れてきたフィジカルコーチ・ティリーのもとで行ったいた小倉はティリーから様々な話を聞かされたという。それは単にリハビリやフィジカルの話ではなくサッカー全般に関わるもので、小倉のサッカー人生にとってもかけがえのない財産となったことだろう。同じように若くして海外のサッカーに触れ、ある意味他人では味わえない試練を経験した小倉は、W杯などの舞台こそ踏んでいないものの、人よりも深みのある話をプレーヤー達にしてやれる指導者になるに違いない。
 俺は小倉の第二の人生も応援していきたいし、将来実現するかどうかは分からないが、名古屋で指導者として再びその雄姿を見られたら幸せだと思う。
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by tknr0326g8 | 2006-02-14 17:35 | PlayBACK
PlayBack#6 レフティモンスター・小倉隆史の「もしも」 (前篇)
 少し古いネタですが、個人的にどうしても記録しておきたいので・・・

 俺にとっての初代アイドルだった小倉隆史の引退が発表された。(甲府公式

 テクニカルにしてパワフルな左足、溢れるイマジネーション、そして人を惹きつけて止まないキャラクターを持つ彼は生まれついてのスターであり、誰もがその将来に希望を抱かずにはいられないようなプレーヤーだった。
 そんな彼のプロとしてのキャリアのスタートは輝かしいもので、世に言う「四中工三羽ガラス」のひとりとして出場した全国高校サッカー選手権で優勝し準地元とも言える名古屋に入団すると、その年のナビスコカップでさっそく鮮烈なデビューを果たした。そしてJ開幕を横目にその先のキャリアを見据えひとりオランダ(フェイノールト)へと留学、そこでもその能力を存分に発揮し(さらに貸し出された)2部のエクセルシオールでチーム得点王となる活躍を見せた。この年オランダで新人王を争ったというオーフェルマルス(当時アヤックス)と小倉が後にどちらも膝に選手生命を奪いかねない大怪我を負ったことは運命のいたずらだろうか。
 エクセルシオールでの活躍を認められ1部リーグのチームからの誘いもあったという小倉が翌シーズン日本への帰国を決意したのは、28年ぶりのオリンピック出場を目指して編成されたU-23日本代表チームに合流するためだった。そして帰国後即そのU-23を飛び越えて、当時若手を積極起用していたファルカン日本代表監督によってキリンカップでフル代表にデビュー。二試合目のフランス代表との試合ではカントナ、パパン、デサイー、デシャン、ブラン、ジノラ、ジョルカエフ、ル・グエンといった錚々たるメンバーを相手に日本唯一の得点を奪ったのだった。
 Jリーグではデビュー戦となった当時の王者ヴェルディとの試合でトリッキーなフェイント(マスコミ風に煽るなら“オランダ仕込み”笑)で観客の度肝を抜くとその圧倒的な存在感で一躍時代の寵児となった。折りしも当時のU-23日本代表には、ドリブラーの前園真聖(引退)や高卒ルーキーとしての開幕戦からの連続ゴール記録を持つ城(現横浜FC)、現在の日本代表正GKである川口(現磐田)、その他にも田中誠、服部(ともに磐田)等の才能豊かなプレーヤーが顔を揃え「史上最強」だとか「ドリームチーム」といった言葉がマスコミを賑わしていた。小倉はその中心にいたわけだ。
 アトランタ五輪一次予選のAWAY・タイ戦。今でこそ(ユース世代ならともかく)負けることを想像するのが難しい相手だが、当時としては十分な強敵と言えたタイに対して、監督の西野(現G大阪監督)によって小倉は「2トップの右側」として起用された。当時の小倉は何でも出来る分「FWとしてゴールへの意欲が足りない」などと批判されることがままあったが、西野はそんな小倉を右側に置くことでボールを持った後に中に切れ込んでシュートまでという意識を強く持たせようとした。そして小倉は素晴らしいパフォーマンスを発揮する。(俺の中でもこの試合は小倉のパフォーマンス・ベスト3に入る) 右サイドから内へ切り込んで強烈な左足シュートを放ったかと思えば、前園と抜群のコンビネーション――タメを作るプレーに持ち味がある小倉にとって前園のようなボックス内への飛び出しを武器とするプレーヤーとの相性は殊のほか良かった――を披露してのチャンスメーク、そしてCKからニアサイドヘと飛び込むダイビングヘッドで自ら得点を奪った。しかし、好事魔多しとはこのことで、タイを圧倒したチームにあって終了間際タイ人プレーヤーの無謀にして悪質なタックルを膝に受け長期の離脱を余儀なくされてしまう。(それからちょうど4年後の同じくオリンピック予選でデジャビューのようなシーンが小野に降りかかるわけだが・・・)
 負傷から復帰を果たした小倉はベンゲルのもと急成長を果たしたチームでストイコビッチと2トップを形成する。リーグ戦では前半だけでベンチに下げられる試合があったかと思えば、チームの全得点に絡む活躍を見せるなどなかなかパフォーマンスが安定しなかったが、翌年初頭に行われるアトランタ五輪最終予選に向けコンディションは確実に高まっていた。そして天皇杯では決勝戦での2ゴールをはじめとする活躍で得点王に輝き、チームを優勝へと導く原動力となった。

 そして、シーズンオフも半ば休み返上のような形ででコンディションのピークを維持したまま迎えたアトランタ五輪最終予選合宿・・・誰もが知る「事故」が起こる。ひょっとしたらその事故と同じくらい、その後日本でアスリートとして満足な手術や治療が受けられなかったことが重大なことだったのかもしれないが、この後小倉が真の表舞台へと登場することはなかった。たまに表舞台へと登場する小倉は常に「悲劇のヒーロー」であり「怪我からのカムバックを目指す元スタープレーヤー」だった。

(後編へつづく) 
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by tknr0326g8 | 2006-02-13 02:35 | PlayBACK