Grampus Diary from TOKYO
by tknr0326g8
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PlayBACK#2 ベンゲルからケイロスへ
 「プレイバック」第2回目は、クリスマス特別企画と言うことで、いつの間にか遠い記憶のようになってしまったベンゲルからケイロスまでの歴史(流れ)に関する俺なりの「解釈」です。相変わらず「適者生存」の名古屋版進化論的アプローチで。

■スペクタクルの秘密
 最近でこそ「ポゼッション」とかいう言葉が流行語になっているが、元来日本人はスピード感溢れるサッカーが大好きだ。堅い守備からの「光速カウンター」(そもそもこの言葉があること自体に日本人の嗜好の一端が表れている) は上手くハマれば格上の強豪チームだってチンチンにやっつけるられるし、その爽快感はサポーターを酔わせること受けあい。日本では下手なパスサッカーよりもこっちの方が確実に客を呼べる。バレンシアでは「守備的過ぎてつまらない」と受け入れられなかったクーペルも日本でなら賞賛されるかもしれない。
 ベンゲルのサッカーが瑞穂のサポーターに歓喜を呼んだ「一因」は実はここにあると俺は思っている。(ただ「一因」であってそれが全てではない。)
 というわけで、まずはそんなベンゲルの攻撃戦術をおさらい。攻撃はボールを持った相手のタテを切ってプレスを掛け追い込む所からスタート。そしてボールを奪ったら...

浅野、デュリックス、ピクシーのうち誰かが「逆サイド」のDFラインの裏のスペースへサイドチェンジ(1)                        
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タテに抜けたウイングハーフがゴールラインまで一気に深くえぐる(2)
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FWのひとり(小倉)が相手DFを釣りながらニアサイドへ(3)
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ウイングハーフがその頭を越えるようにフワッとしたセンタリング(4)
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ファーサイドやゴール中央の空いたスペースに走り込んだ逆サイドのWH、もうひとりのFW、ボランチがシュート(5)

 当時のゴール集とかいうものがあれば、流れるようにつながった美しいゴールのいくつかはかなりの確率でこの形に当てはまるはずだ。そしてこの「形」はとても理に適っている。相手ディフェンスが一番薄い所を付き(1)、1対1で対応する間もなく、中のDFが一番嫌な角度からセンタリング(2)、陣形が整っていない相手がガチンコでぶつかれる唯一の可能性を残したニアサイドで無理に勝負することもなく(3~4)、戻りながらのDFと前を向いたアタッカーとで勝負(5)。もちろんゲームの中ではその状況に応じて派生的なパターンも発生し、例えばピクシーがアウトサイドのワンタッチコントロールで中西哲生のゴールをアシストした有名なシーン。長良川でのG大阪戦だったと思うが、左サイドでボールを奪った津島がすぐさま右サイドでDFラインの裏に構えていたピクシーにサイドチェンジを出し、ピクシーがそれを右足のアウトサイドでダイレクトに!ボックス中央のスペースに落とし、後ろから走り込んで来た中西哲生がゴールしたシーンとかも根底にある考え方はこのパターンと言える。もっと抽出して言えば、ベンゲル時代の名古屋では、相手DFを崩すために選手達は「ボールを奪ったら相手の守備陣形が整う前に一気に攻め切っていた」し、その中で「サイドチェンジを有効に使っていた」し、「前線ではダイアゴナルなパスが飛び交っていた」
 そしてベンゲルのサッカーで最もスタジムが沸きサポーターの脳裏に今でも鮮烈な印象としてこびり付いているのは、ピクシーのファンタジーを除けば恐らく(2)の両ウィングハーフ(平野と岡山)が爽快なスピードでサイドを切り裂く姿ではなかったか。名古屋系の掲示板で今でも「サイド」やそのプレースタイルに拘りを持つ人達が多いのも、俺にはその名残りのような気がしてならない。
 理に適った戦術で陣形の整っていない相手を振り回し、スピード感溢れる突破を武器に得点を奪うスタイルとそこにピクシーという「スパイス」が加わる攻撃。さらにこれまた日本人が大好きな「戦術」や「組織」といったイメージを満足させるに足る美しく統制された4人のDFがラインを高く保って相手をオフサイドトラップに陥れるディフェンス。これらがベンゲルサッカーが名古屋において「スペクタクル」と呼ばれサポーターを歓喜していた理由。そして最後にもうひとつ忘れてはいけないのが「勝利」。バブルが弾けたJリーグにおいて、ベンゲル率いる名古屋は内容とともに、勝つことによってサポーターをスタジムに呼び寄せていた。

■ピクシー プリーズ!
 ベンゲル時代の名古屋を語る上で外せないのが選手として第二のピークを迎えていたと言っても過言ではなかったピクシーだ。名前だけでなくそのプレーはピッチ上で絶大な存在感を放っていた。まあピクシーに関しては簡単には書ききれないのでまた改めて書くとして、その卓越というか超越した技術は、チームに「ピクシーに預ければなんとかなる」という思いすら生んでいた。例えばさっき書いた基本的な攻撃のパターンの最初のステップとなる(1)で上手くサイドチェンジが出来なくても、奪ったボールをピクシーに預ければキープして絶妙なタイミングでサイドを走らせてくれる(つまり(2)のステップへの移行)し、時にはそんなプロセスを経なくても相手を崩して決定的なラストパスを供給してくれる。ピクシーの絶対的な存在と信頼感は、チームを前へと向かわせる勢いを付ける上でもなくてはならない存在だった。実際にベンゲルも「困ったらピクシーに預けろ」という指示を出していたという話もあり、ピクシーそのものが「戦術」という側面も持ち合わせたいたのである。まあそれは悪い方向に回り出せば「ピクシー プリーズ!」なんだけど。

■リアクション・フットボール
 現在はプレミアリーグのアーセナルにおいて美しくパスのつながる流麗なサッカーを展開しているベンゲル。だが、今アーセナルでやっているサッカーと当時の名古屋のサッカーは、全くとは言わないまでもほとんど別物だ。さっき書いた内容からも分かる通り、名古屋でのベンゲルのサッカーは「リアクション・フットボール」だった。チームは性質上、当時のセレッソのような最初から引いてくる相手には滅法弱かった。成長著しい日本人選手達もスペースを消された上で主体的にボールを持たされてもなす術がなかった。そして研究されてくるとどのチームも両サイドの「タテ」をとにかく切る。1対1に絶対的な強さを持つ例えばフィーゴのようなサイドアタッカーがいるならまだしも、平野も岡山もスペースがないとその力をまだ発揮することが出来ない。名古屋はまさしく「翼をもがれた」状態だった。そして「ピクシー プリーズ」。そんな中でもなんとか勝ち点を拾えたのはセットプレーの恩恵で、トーレス、浅野といったヘディングが強かったプレーヤーに加えピクシーの天下無双のキックが名古屋にとっては「蜘蛛の糸」だった。
 そしてベンゲルは在任二年目の96年シーズン半ばアーセナルに去った。研究され対策を練られた状況をどう打開するか、チームをリアクション・フットボールからいかに発展させていくかという課題を残したまま。
 選手のレベルを考えれば、チームが取るべき戦術として「リアクション・フットボール」と「DFラインを高く保ってのプッシュアップ」が唯一の選択肢だったかもしれない。しかしそれゆえの不安定さ(5-0で勝ったかと思えば0-5で負けたり等)やチームの限界も存在していた。そしてその解決も含めて後任を任されたのがベンゲルの紹介でやって来たポルトガル人のカルロス・ケイロスだった。

■世界を先取り「4-2-3-1」
 シーズン途中にMLSから名古屋にやって来たケイロスは「サッカーはショータイムだ」との信念を披露しサポーターにスペクタクルを約束した。その年のJ1が1シーズン制でチームが優勝争いをしていたこともありケイロスはシーズン中は基本的にベンゲルのやり方を踏襲する方法を選んだが、その中で少しづつ自分の「色」も出していった。そのひとつが4-2-3-1システムだ。今や「スペクタクル」の代名詞ともなっているリーガ・エスパニョーラにおいて数年前から主流になっているこのシステムは、フランスW杯後の98-99シーズンにヒディングがレアル・マドリーに持ち込んだのがスペインにおける起源とされているから、その2年も前に4-2-3-1を「サイドアタック」と「中盤でのボールキープ(支配)」という同じコンセプトからの発想(←ここが大事)で採用していたのだから、名古屋のサポーターは誇りに思っていい。もちろん、かの杉山茂樹が妄信的に騒ぎ出すよりも、原博実がスペインから「輸入」して東京に持ち込むよりも遥かに前の出来事。
 シーズン終盤の鹿島との文字通りの天王山@カシマスタジアム。ケイロスはこの日初めて4-2-3-1を採用した。ケイロスの狙い通り4-2-3-1は名古屋の選手達のスタイルにバッチリとフィットし、試合開始から鹿島を寄せ付けなかった。しかしセットプレーから先制点を奪うも、大岩が怪我の治療でピッチを出ている間に同点弾を喰らい一気に逆転されてしまった。最終スコアは2-4。結局その年は鹿島がシーズン優勝を果たした。その後に、リーグ戦の1位&2位とナビスコカップの1位&2位でタスキ掛けトーナメントやった「サントリーカップ チャンピオン・ファイナル」とかいう良く分からないタイトルで鹿島を破って優勝し、鹿島のお祝いムードをブチ壊したのがその年のせめてもの気安め。そしてそのサッカーは翌年に向け期待を抱かせるに足るものだった。

■リアクションからアクションへ
 新シーズンが始まるとケイロスは自分のカラーを打ち出した。コンセプトはリアクションからアクションへの転換、そして安定した戦いの出来るチームだった。システムは前年からテストしていた4-2-3-1を継続採用。DFは高いラインを止めプレスを掛ける位置も少し下げた。そして最も特徴を出したのが攻撃面だ。それまで速攻一本槍だったチームに「中盤でのボールキープ率の向上」という概念を持ち込み攻撃のバリエーションを増やそうとした。ピクシーが絡む場面を除けばシンプルなパス交換からウイングハーフを走らせるサイドアタックぐらいしかなかったベンゲル時代に比べ、サイドの選手が1対1の場面で積極的に内側に(ゴールに向って)ドリブル勝負を仕掛け、ベンゲルの時には守備専門だったサイドバックがオーバーラップを敢行し、ボランチがクロスオーバーを仕掛けるといった試みがケイロスのカラーだ。ポジションはより流動的になった。キッチリ組織を固めて守る相手を崩すには自分達も変化をつけたりバランスを崩して攻めなければならないというわけだ。
 ボールをキープし自分達でゲームをコントロールしようとする姿勢、そして(時にはバランスを崩してでも攻めるため)簡単にボールを失うことは命取りになるという危機感から、ケイロスの元ではベンゲル時代不動のレギュラーだった浅野や岡山とった足元の技術・ボールコントロールに難のある選手よりも望月のようなプレーヤーが重宝された。一度だけ試された大岩のボランチ起用もこの意図を反映してのものと思われる。まあこの大岩ボランチ起用にとどまらず、飯島のフリーキッカーとか、ケイロスの発想は全てを白紙に戻してのスタートだったし、「複数のポジションをこなさなければいけない」という今では当たり前のことを選手達に要求していた。

■悪魔のサイクルと「ビジネスシステム」
 そんなケイロスにとって不運だったのはシーズン前からいくつかの誤算が続いたことだ。まずはデュリックスの突然の退団。これによってチームは中盤の核を失ってしまった。後釜に獲得されたブラジル人のリカルジーニョはまだ20歳そこそこの若い選手で、キャリアも浅くとても多くを望めるような選手ではなかった。「怪我」もケイロスを悩ませた要因。まずはベンゲル時代不動の左SBだった小川の怪我による離脱。リーグ開幕戦でそのポジションに入ったのは高卒ルーキーの滝沢だった。リーグ戦が始まって横浜Mで出番を失っていた元日本代表の鈴木正治を獲得したものの、その鈴木も移籍後初試合でいきなりの大怪我を負ってしまう悲運。そして小倉。一年前のアトランタ・オリンピック・アジア最終予選に向けた合宿で起こった悪夢から復活を果たした小倉だったが、右膝の状態は小倉自身がそのパフォーマンスを発揮するには程遠く、オランダに渡っての再手術が決定した。
 この年のJリーグはリーグ戦開幕前にナビスコカップのグループリーグがあるという変則日程で、ナビスコカップのグループリーグこそ1トップをピクシー、望月、平野等で回しながらなんとか乗り切ったが、肝心のリーグ戦はトーレスが出場停止だった開幕戦を接戦を落とすと怒涛の6連敗。この頃にはケイロスのスタイルが悪い方向に回り始めていた。ボールを持ってもドリブル勝負等すぐにパスが出ないから周りの選手は動くタイミングをつかめない→そして周りが動かないからパスを出すタイミングを失う→そして周りの選手が…という完全な悪循環。チームは悪魔のサイクルにはまり込んでいた。何人かの主軸選手の不在、そしてケイロスが求めることを消化し実践できない選手達。
 そんな中で迎えたのがホーム瑞穂での浦和戦だ。ケイロスは自らの「サッカーはショータイム」という信念を捨て、マンマーク気味の3バックを採用した。まずは守備ありきのその戦い方をケイロスは結果を出すための「ビジネス・システム」と呼んだ。後にどこかで聞いたような戦い方だが(笑)、チームはその試合で浦和に3-1で快勝すると、その「ビジネス・システム」をベースとした堅い守備からの速攻を武器に今度は破竹の5連勝。勝ってる時はいいが一旦負けだすと止まらなくなるという、後にズデンコが指摘した日本人選手のメンタルの欠点。結局優勝を期待された1stステージは期待外れの12位という順位で終了した。

■終焉から回帰へ
 2ndステージ。ケイロスの要望でベンフィカのアイドルだった元ブラジル代表のバウドを獲得し、チームは優勝を目指して再スタートを切った。しかしこのバウドがフィットする前にシーズンは終わってしまった。事件は2勝1敗で迎えた第4節、因縁のカシマスタジアムでの鹿島戦で起こった。そう、ピクシーが「サッカー人生最大の屈辱」と語ったあの試合。その日カシマスタジアム上空には強い風が舞っていた。なぜかフリーだったビスマルクの右足から繰り出されるハイボールを先発出場の古賀がことごとく目測を誤りバウンドさせては相手FWにさらわれた。「右往左往」という言葉を実写化したらまさしくこんな感じ。鹿島に計7点をブチ込まれての完敗。スコアは7-0だった。ルーキーだった古賀は泣きながらピッチを後にした。そしてこの試合で実質この年の名古屋の2ndステージは終了した。その後は勝ったり負けたり。最終的には帳尻合わせで5位まで順位を上げたけど…。
 ケイロス続投に向けて最後の「試験」となったのはナビスコカップの決勝トーナメントだ。ケイロスもまさかこの決勝トーナメントが自分の命綱になろうとは、リーグ開幕前にグループリーグを戦っている段階では思ってもいなかっただろう。このタイトルを取っていたらひょっとすればケイロスは続投していたかもしれない。しかしここでも準決勝で鹿島に苦杯を喫する。そしてケイロスは解任された。その後南アフリカやUAEの監督を経てマンU、マドリー等ですっかり大物になったから言うわけではないが、個人的にはもう少し見てみたかった監督だった。少なくともそのサッカーに対するフィロソフィーみたいなものは俺の好みだった。
 名古屋の次期監督に選ばれのはベンゲル、ケイロスの元でコーチを務めてきた田中孝司。そしてクラブが掲げたテーマは「ベンゲル時代への回帰」だった。
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by tknr0326g8 | 2004-12-24 12:50 | PlayBACK
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